私絵画の描き方

白い磁器製の水彩パレット。15色置くことが出来る。混色もこの中で行う。水彩の場合、これ以上の色数は無理だと思う。色はブラック、ウルトラマリンブルー、コバルトブルー、セルレアンブルー、チタニュームホワイト、が下の大きい皿、ローズマダー、カドニュームレッド、ローシェンナ、カドニュームイエローレモン、カドニュームイエロー、オーレオリン、コバルトバイオレット、 グリーン、コバルトグリーン、ビリジャン、画上の小さな皿。
絵画は,自分の個人のものになったのだと考えて居る。「私絵画」である。絵画が社会的なものであった時代もある。その時代には絵画は社会に対する表現が問題になった。社会に対して自己表現をする手段としての絵画。しかし、表現芸術としての絵画の社会的な役割は終わった。
今世間にある絵画として存在するものは、商品絵画である。インテリアのようなものである。装飾品であるから、作家のの自己表現のようなもの問題にはならない。ある意味、過去の日本の伝統絵画にあった床の間芸術に戻ったわけだ。
表現芸術ではなく、装飾品としてあっても良いが、人間の本質としては不用なものである。昔なら床の間を飾る。あるいは広間のふすまに描かれる。ホテルのロビーのインテリアもあれば、茶室のあつらえのようなものもある。あくまで飾り物であること。
いずれにしても芸術としての絵画の社会的な役割は終わった。と言ってもこれは西欧の近代絵画の範疇で言えばである。日本では、芸術というものの意味が西欧とは異なった。装飾するものとしてのみ絵画は描かれていた。そこに明治以降西洋から,芸術としての絵画という考え方が導入された。
芸術としての絵画は、19世紀印象派の出現と共に主張された芸術の考え方である。私はそれを近代絵画として学んだ。自分を絞り出すものが芸術であり、床の間に飾るような作品は商品であって、芸術とは無縁だと。小林秀雄や岡本太郎の本から学んだ。
明治以降日本的西洋絵画が現われて、苦悩しながら日本的な芸術としての絵画を生み出したと思う。それが中川一政であり、梅原龍三郎だと思う。そして、そこで終わった。その次の展開を私は目指しているつもりだったのだが、社会の中からそうした芸術は消えていった。
終わったことに気づかず描いている人もいるが、結局の所その様相は商品絵画一辺倒になっている。あからさまに商品と言えば、商品としての価値を失うために、一応芸術作品と言うことにはされているが、表現技術としての意味合いはどこにもない。
社会の根底の動きとは、無縁の、関係しようともしない、見栄えだけを意識するような装飾品としての絵画だけが、一応はある。私にはそれら商品絵画は芸術として考えれば、無意味なものにしか見えない。存在の意義のないものだとしか考えられない。
芸術であるとすれば、その絵画が見る人の精神に影響するような表現でなければならない。見た人の生き方が変わるようなものでなければならない。私は中川一政の絵を見て、励まされて、芸術としての私絵画を描いてきた。だから時々は見ないといられない。
所がそうしたかつての絵画の役割自体が失われている。絵画をそうした、自分の生きるという日々に影響するものとしてみない。あえて芸術としての絵画を求める人は、過去の絵画を見ることになる。中川一政氏もすでに過去の絵画の人である。
同時代の絵画の中に、私の生き方に関わるような絵画は申し訳ないが存在しない。当然のことで、今描かれている絵画は売れることを目的にして描かれる、商品絵画なのだから、生き方を求めて絵画を見ること自体が、見当違いなことになる。
絵画が芸術であった時代の絵画を見ることになる。ある意味かこの絵の展覧会は花盛り感がある。この時代を描き表現する絵画というものがないわけだから、絵を見てみたいとなれば、昔の芸術して成立した絵画を見ることになる。しかし、これは本当の芸術体験とも言い切れないところがある。
時代が違うわけだ。ルネッサンス絵画を見るという気持ちと、マチスの絵画を見ると言うことでは、その意味が違う。ダビンチの絵画のすごさはあるのだが、それはあくまで昔の人の世界という、切実感のないものを、鑑賞すると言うことになる。
ダビンチの絵を見て感動はするが、自分との距離は遠い。自分の日常と関わるものにはならない。マチスは子供の頃には日常の中にあった。なるほどこの世界は魅惑的なものだと思えた。ここから自分は出発して次の芸術を目指せると思えた。
ところが、マチスは一つの結論であって、その次につながるようなものではなかった。マチスはピリオドを打った。そこで悪戦苦闘して、どうも時代と、その社会と関わるような絵画は終わったと思わざる得ないと言うのが結論になった。
なるほどすごいとは思うわけだが、自分の生き様に影響するようなものではない。しかし、絵としては同列に見れるわけで、マチスの隣にモナリザがあったとしても不思議はない。しかし、その芸術としての意味は始まりと終わりのような違いがあるのだ。
そしてその両者とも、今や過去の世界の絵画になった。モナリザが描かれた時代に生きてその絵を見た人の思いと、今見るのでは全く別物なのだ。その意味でマチスの絵も、やはり現代に生きるものには昔の絵であることは変わりない。もちろん昔の絵としての素晴らしさは格別である。
そう考えれば、今同時代に生きる人に絵画があるかと言えば、明らかに、ない。かつて絵画が芸術であった時代の、様相だけはあるが、時代の中で生きているような絵画はない。絵画が芸術だった時代の遺物のような作品は今も描かれてはいるが、今の時代に呼応したような絵画は生まれてこない。
社会の方で、多様化した視覚表現が生まれ、絵画という表現時代が、時代錯誤の表現になったのだろう。そう考えるようになったのだが、ここに展開があった。それでも絵を描くことは面白い。生きる日々の手応えがある。描くという行為の面白さは、あらゆる面白さを越えているような気がする。
自分と向かい合い、自分の何かを探求する。その探求過程が、絵という姿に現われる。この興味深さは計り知れないほどだ。何か行のような宗教の行為のような気がしてくるほどなのだ。田んぼが面白いとか、釣りが面白いとか、ゲームが面白いというようなこととは次元が違う面白さなのだ。
その理由は考えたこともなく続けてきた。絵を描くことが尽きない。これはどうも絵を描くという行為自体に意味があるのではないかと考えるようになった。絵画という描かれた結果よりも、絵を描くという行為に意味があるのではないかと考えるようになった。
それは、座禅と変わらないと思うようになった。座禅は修行として行う。座禅修行したからと行って何かがあるわけではない。悟りに至るとしても、その人間の問題であり、何か神通力のようなものを得られるわけではない。これはどうも絵を描くのと変わらないのではないかと思うようになった。
絵を描く行為を、座禅すると言うことと同じと考えれば、座禅は苦行であるが、絵は楽行である。しかし、只管打坐も只管打画も変わるものではない。ひたすら描くこと自体に意味がある。ただ描くことは尽きなく面白い上に、その行の課程が絵として残る。
私のような俗物には、形のない修行では耐えがたい。座禅よりは千日回峰行の方が、今日はまだ何日目の修行だというけじめがある。まだ増しかも知れない。終わりなく座るという意味に耐えがたいものがある。座禅そのもにはなれない。
そこで絵を描くことは私の楽行なのだと思うことにした。絵画することになりきる。それだけで言い訳だが、絵を描く行為の先には、描かれた絵が道しるべとして残る。この残るものよすがとして、描き続けることが出来る。進んでいるのかが、迷いの中でもわずかに見える。