映画「あん」を見た
樹希きりん主演の「あん」を見た。樹希きりんファーンには、見逃せない一作である。本物の映画に出会ったんだという思いが続いている。素晴らしい映画の波動に包まれた。樹希きりんさんのすごさもあるのだが、河瀬直美監督の人間観が際立つ作品である。人間というものの見つめ方が、ふかい。底の、底まで見通している。映像で写す、わずかなことを、何気なく示している。ほとんどの事がただある物として示されている。見るものがそれをどのように受け取れるかにかかっている。つまり、良い本が読む年齢でその深さが変わってゆくように、こういう映画は見る人によって様々に見えるものだろう。こきりんと元木さんの娘であり、樹希きりんさんの孫娘である、内田伽羅の演技しない演技もいい。内田裕也さんの孫ということでもある。お母さんのこきりんさんの演技は忘れられないものがある。ふつうであるすごさのようなものを見せていた。その上に、えも言われる深いものを感じさせていた。しかし、あっさり映画から身を引いた。
あんは餡子。アンコの餡である。餡作りは和菓子作りでも、もっとも修行がいる事とされている。餡作りの難しさは、良く練り上げ方だと言われるが、この映画では、小豆に思いをはせると言う事の大切さが語られる。この小豆が、どんなお日様を浴び、どんな風に出会い、ある夜の月光に照らされ、雨にぬれる。その小豆の生きてきたすべてに耳を傾ける事ができなければ、餡を作ることはできない。畑で作物が育つという事の見つめ方があんを作ることのすべてだと言うのだ。歴史に思いをはせると言う事の意味が暗示されている。ハンセン氏病の問題が問われているのだ。その事を直接的に問う事は無い。ただ、人間が生きると言う事の意味に、いざなわれてゆく。それではお前はどうなのかという事だ。すべてを自分の事として生きる事が出来るのか。生きる上で、何を見逃してはならないのか。
川瀬監督は世界で高く評価されている。正直今まではその意味がよくわからないかった。少しかったるい感じを受けていた。ゆるやかに見えるのだが、骨格のようなものが弱い気がした。それがこの映画では、良い役者を得て、良いものが表面に出てきた。その良さがいかにも日本というローカルなもので、これは世界では理解されないのだろうと感じるが、実際はどうだろうか。あまりに日本の普通のことなのだ。ふつうのことの中にある、もっとも卑劣な差別のこと。その差別があまりに日本的な差別なのだ。最近のはやり言葉でいえば、風評被害という、無責任な置き換え。私は何の関係もありませんという、しらじらしい差別。じつは、私は知らなかったとか、私は関係のない、ということなど世の中に何もない。黙っているということの差別。
冒頭の写真は宮古島で手に入れた、黒小豆の種である。とても珍しいものだ。その後ろにある台は、三線の譜面台だ。小豆の栽培は難しい。難しいというのも違うか、私の力量を超えて手間がかかる。実は、今宮古島の黒小豆の種を見ている。毎日蒔かなければと思いながら見ている。大豆をまくついでになど思っている。何度か小豆も作ったのだが、うまく栽培ができないうちに、弾けて落ちてしまった。収穫いくらしたこともあるが、その後がまた大変で、食べるところまでゆかなかった。小豆のようなものは、どうしても必要というわけでもないから、ついつい、作らなくなった。この映画を見て、もう一度小豆を作ってみたくなった。手をかけて作ってみたくなった。小豆と一緒に、月や、風を感じたいと思った。