川柳ヘタの横好き

   

黒姫山 お花畑 10号 この絵は描いている内にすっかり現場とは変わってしまった。写生と作り絵と何が違うのかは分からないが、何かに従っているのは確かなのだが、写している訳でもないことも確かだ。

川柳が大好きである。読むのも好きだし、自分でも作る。まぎれもなく、ヘタの横好きである。時々川柳を思いつき始めると、はまり込んで作る。先日お風呂川柳大会というものがコロナの湯で企画された。10点ほど応募した。「保険料 せめてコロナに 払いたし」というようなレベルのものをずらずら投句した。応募期間が終わっても、その勢いで良く作る。と言っても作ったままで忘れてしまう。次に、川柳大会があれば、大いに頑張るつもりだ。先日東京に行く電車の中で、作って手帳に書き留めて置いた。「体重計 そっと乗る 巨漢」「靴箱の 空きで見る 混雑度」「受付の 店員で八卦の 運命線」「風呂に来て 今日初めての 会話する」「外で会い 互いに照れる 風呂の友」「退職後 世の流れを 風呂で知る」「しかめっ面 仏頂面も 風呂で脱ぐ」「泣き言も 自慢話も エコー入り」「女房殿 押しかけてこない 男風呂」「風呂あがり 御苦労さんの 声掛けて」「犬に猿 社長に狸 並び入る」「見たいかな 見たくはないな 女風呂」

どうも正直、まだ、笑えないレベルである。笑えない川柳では役に立たない。人を笑わすということは、最高の芸である。わたしは猫ジャラ子(し)という名前を名乗ることにした。川柳の雅号は柳号というらしい。ネコジャラシは例の雑草の呼び名である。猫がじゃれるような言葉遊びをしたいと思うからだ。最近ラジオの投稿のペンネームには凝ったものが多いい。名前を聞いただけで笑ってしまうことがある位だ。テレビはお笑いタレントが全盛であるが、落語や漫才の芸としての洗練度がない。笑いの狙い所が、小学生低学年なのだろう。大人が何度聞いても笑えるようなものは、先ず存在しない。テレビが子ども向けというより、幼児向け中心に成ってきた。先日も少し書いたが、お子様向きに成ったアンパンマンである。そういうものが悪いということでなく、本当の洗練された芸としての笑いが欲しいということである。しかし、そうは言うものの、私の川柳では説得力がない。

以前、老人会に川柳を持って行かれるという方から、川柳の印刷された紙をいただいた。これが笑える、一時間位腹を抱えた。思い出してもおかしくて、絵を描きながらついつい笑った。それならと思ったのが、笑えるような絵が良い。私の絵はしかめっ面である。硬い。絵を見た人が、心がほどけてゆくような絵を描きたいものだ。日本人は笑っているので判別できる。40年前フランスに居る時に言われた。当時、中国人や韓国人もいたのだが、苦虫をつぶしたような顔をしていたのだ。東洋人を見分けるコツは、笑っていれば日本人だと言われた。これは嬉しいではないか。最高の褒め言葉だと思った。笑っているということは心がほどけているということだ。フランスに旅行に来て、緊張なく笑っていられるというのは、とてもまれなことだ。アメリカ人は馬鹿にされまいと、横暴な顔で歩いていた。そもそも、フランス人はめったに笑わない人たちだった。今、日本人は笑いながら、パリのサントノーレを買い物しているのだろうか。

笑いは免疫力を高める。笑う門には福来る。笑いで病いも退散。

以下第一生命保険のサラリーマン川柳の優秀句から
「まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる」
「『ゴハンよ』と 呼ばれて行けば タマだった」
「プロポーズ あの日にかえって ことわりたい」
「 定年後 田舎に帰れば 青年部 」
「父帰る 一番喜ぶ 犬のポチ」
「親の希望(ゆめ) つぎつぎ消して 子は育つ」
「さからわず いつも笑顔で 従わず」
「陰口を たたくやつほど ゴマをすり」
「 70歳 オラの村では 青年部 」

昨日コロナの湯に行くと、川柳大会の結果が発表に成っていた。マッサージチェアーがずらりと並んだ上の壁に、20点ほどの佳作が張り出されていた。そこに何と私の川柳もあった。「風呂を出て、誰かと思えば わが娘」が選ばれていた。私としては不本意ながら出した句であった。10句にはもう少しましなものもあったと思っていた。それでもまあまあ、気分よく風呂から出ることが出来た。不思議だったのは、他の皆さんの佳作の川柳は、ほぼ俳句と言っていいものだった。

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