橋下氏と報道の自由問題
「報道と人権委」の見解、橋下市長に報告 朝日新聞出版週刊朝日の謝罪が行われた。あらゆる角度から、自己批判がされている。そのことは当然のことだが、何故、ここまで悪質な人権侵害記事を書いてしまったのか。また、週刊誌における報道の自由とは何か。この事をこの機会に深刻に反省した上で、考えておく必要がある。まず、この記事は、週刊朝日が、特集として極めて力を入れ、時間と費用を掛け、外部のノンフィクション作家である佐野眞一氏に依頼して作った記事であること。佐野氏は以前に盗用事件を繰り返し起こし、謝罪している人である。しかし、大宅壮一ノンフィクション賞等多くの賞を受賞している第一人者である。週刊朝日と、とかく問題のあるノンフィクション界の大御所が協力して作った記事という事に成る。それが何故、人権侵害と言える、とんでもないものになったかである。週刊誌の記事だからいいだろうと言う訳にはいかない。記事に基づき国会で質問する自民党議員がいる時代である。週刊誌と言えども一定内容が信頼されているということである。
この事件は差別の問題と、伝聞による記事を公にしたという2つの側面がある。そして、報道の自由を自ら、放棄したという苦いものでもある。報道機関の倫理的姿勢の希薄さがある。取材力の劣化ということが背景にある。週刊誌部門だから、こんな程度のものだとは言えない。卑劣な人権侵害の報道がどのようなものかの、自覚が必要である。週刊朝日の編集長がこの程度の常識が無かったということが、意外であるし、そのことの原因が究明されるべきだ。この特集連載記事は、社挙げて取り組んだ企画である。これをおかしいとして止める者が編集部にいない。又この事から起こる様々なことへの、想像力が欠落しているとすれば、ジャーナリストとして失格である。それ以上に、人間としてまともな人たちとは思えない。高等教育を受けている間は、優秀な人たちだったはずである。人間としてのまともな感覚をいつか失った。
ジャーナリズムを失うということは、民主主義社会としては致命的なことに成る。当初、橋下氏は朝日新聞社の記者会見、参加禁止をおこなった。それに対して市民の知る権利を盾に、抗議的質問が記者会見で飛び交っていた。この事はどうなったのであろう。うやむやで良いとは思えないのである。週刊朝日の記事の問題点を認識できなかった記者は、多数存在したのだ。市長の記者会見に朝日新聞を拒否すると言う事も、おかしなことである。報道の自由の確立という意味から、ここで引いてしまうのは、おかしいことではないか。解放同盟の無言の圧力を受けていないかということもある。タブーにかかわる問題で蓋をしてしまおうと言う事もよくない。書いた本人である、佐野氏の謝罪の言葉の羅列は、表面的で大宅賞受賞の人とは、思えないものだ。以前、盗作をした時の謝罪文も似ているのだが、この人はノンフィクションを書く資格がない。にもかかわらず、大宅賞に選ばれると言う事も随分甘い世界である。こうした賞が、営業的に出されていることが推測される。
今回起きた諸々の問題を、反省を含めてきちっと検証しなければならない。衆議院選挙が終わってからでいいので、報道の自由とジャーナリストの倫理の問題を朝日新聞は、検証を行う必要があるだろう。政治家に対する、タブーを作ることも報道の自滅への道だ。週刊誌に女性スキャンダル問題が、書かれたことで、9月には現職の金融・郵政民営化相が自殺をした。暴力団との関係を書かれて大臣が辞めた。今も、国会で追及されている大臣がいる。いずれにしても、週刊誌報道が政局に影響を与えている。これが悪いことだと言うのでなく、どこまでが許される範囲なのか。また、その報道の内容がどの程度信頼できるものなのか。そう言う事を週刊誌報道は自己検証すべきだ。ネット報道がさらに無責任な伝聞に基づき行われる中で、週刊誌の存在意義を自ら高める努力をすべきだ。