空き家の増加
総務省の2008年の調査によると、賃貸住宅の空室や別荘なども含む全国の空き家は約757万戸。08年までの10年間に約180万戸増えた。この3年間でさらに増えて1000万戸に近付いているのだろう。人口も減少しはじめているし、過疎や限界集落の深刻化が空家数に現われている。不思議に思うのは、それでも久野では建築ラッシュである。私が越してきた11年前舟原73軒の集落だったところに、15,6戸の家が建てられた。今も建てられている家がある。多分、久野全体でも似たような状況のようだ。それでも小田原は人口は減少している。空き家が増え、新築の家が建てられるのは何故か。一種のバブルなのではないか。いらないものが作られてゆく。家の循環が滞っている。家が使い捨てになる。建物としての家だけでなく、家制度の家の方の崩壊がある。どれほど立派な家を立てた所で、人間の方が一代の暮らしかたの先が見えない。
空き家が増加しながら、家が作られてゆく日本の現実。将来のくらしの展望がないまま、一応家を作る。その家は一時暮らす範囲で作られてゆく。子供がどう暮らすのか分からない以上。孫子の時代に残すような家を作ることは、考えにくい。それでも、昔からの慣習に引きずられて、家を残そうと言う人もいる。100年住宅と言っても、一体日本人で100年後を展望して生きているような人はどれだけいるのだろうか。建築会社と言うものは、理由はさておいて、家を作ることで自転車操業している。家を作ると言ってもせいぜい20年後程度の展望でつくるのだろう。子供が成長して一緒に暮らすなど、想定できない時代である。その頃の日本がどうなっているのかなど、想像しにくい。農家であれば、農業を続けているなど考えにくいだろう。その結果、兼業農家の家は農家らしくもない。
空き家が増えている。空き家の持ち主はどこかほかのところにも家を持っていて、そこに暮らしていると思われる。分かりやすいのは、故郷に家だけ残されている姿。立派な家であったとしても、様々な事情で、帰ってそこで暮らせるとは思えない場合。それが転売できるような場合や、思い切りがあるなら循環が生まれる。大抵は、手の打ちようがなく、置き去りにせざる得ない。結果、空き家となって表れているが、農地の場合は見えにくいが、同じ経過をたどっているのだろう。本来であれば、せめて一人の人間の一生ぐらいは、誰でも想像できる社会でなければならない。今の小学生が、私の歳になった時、果たしてどんな暮らしをしているのか。全く想定しがたいものがある。それだから小学校で英語を教えると言うような訳のわからないことになる。
空き家は痛む。人が住まなくなった家は、耕作放棄地が、あっという間に山に帰るように壊れる。雨漏りが始まり、屋根が落ちるまでは案外に早い。それなら人に貸せばと思うのだが、何故か実行する人は少ない。本来なら、その様々な面倒を担うのが、地域行政のはずだが、地域行政は大抵は土建的であるから、建築会社の新築方針を、邪魔をするような施策はしない。日本に家はもういらない。今ある家を直せば十分である。新築禁止礼を出す。直せば十分に住める。舟原のいま住んでいる家は、大震災の後、建てられた家として登記されている。この家も何度か直されながら、持ち主が変わったもののようだ。暮らしに合わせて家は直せる。直した方がいい。本来で言えば、農業振興地域の市街化調整区域である。一般住宅の建築ラッシュはどういうことなのだろう。