奇跡のりんご
「すべては宇宙の采配」(東邦出版)奇跡のりんごの木村秋則氏の本を読んだ。農の会一の読書家の高橋さんが貸してくれた。なかなか面白い本で、あっという間に読んでしまった。木村氏ご自身の「奇跡体験」が書かれた本である。龍を見たとか、宇宙人に時々会うとか。言う話である。奇跡のりんごとよく言われている。りんごがりんごとして実る、と言う事実が奇跡なのかと思っていた。超自然の力としての奇跡が、木村さんの畑に作用している。そういう意味での「奇跡のりんご」らしい。神経衰弱に陥り様々な妄想が去来した。と読むほうが普通の事であろう。自殺をしよう岩木山の奥に入ってゆく。そして紐を投げ上げた所、野生化したりんごの木が3本たわわに実っている。何故、こんな所に、りんごの木が。畑ではどうしても実らない、花も咲かないりんごが、何故山のなかでは、病虫害もなく、見事に実っているのか。
なるほど、人為を捨てることが、自然栽培への道と気付くことになる。しかし、再度確認のため、その野生のりんごの所まで行ってみると、りんごの木はなく、クヌギが3本あるだけである。これを宇宙人の采配と読むか、気を病んだ妄想と読むか。10年間の艱難辛苦を経て、全ての人為的操作を捨て去った時、りんごの自然栽培を達成する。と言う事に物語りは終わる。これではりんごの自然栽培の参考書にはならない。福岡さんの本も、川口さんの本も、栽培の参考に成る本ではない。自然界に起きている事を、論理的に解明することが、科学である。農業を科学する姿勢を捨てた時、奇跡のりんごが実る。ちょっと困る農業のカリスマの登場である。どこの誰でも、同じことをやれば同じになる、農業技術の確立。これでは話として面白くないので好まれないのか。
技の蓄積が、伝統農法である。同じ畑で同じものを、何百年も繰り返し作り、これしかないと言うように、一子相伝に伝えられた技。それは生き方暮し方を含めたた伝承的世界。この伝統農の世界は、江戸時代に豊かに充実を向かえていた。鶏の世界を考えても、今も再現できない技術が秘伝として、山のように存在した。一切が変わる明治維新以降の日本農業。西欧の近代農法の導入。特に戦後食糧増産。伝統的鶏飼いの技は過去の遅れたものとして、蔑まれ、捨てられ消えてしまった。経済合理性。配合飼料。合成化学物質の添加。消毒、ワクチン。大規模化。こうした背景によって、ごくごく当たり前の世界が、奇跡の世界として登場する。りんごが自然農法で実ることは、当然の事で誰にでも出来ることでなければならない。フランスのナンシーでは自然栽培のりんごがいくらでもあった。
村八分。木村さんが一番苦しんだ事。違うものを排除する思想。違うものが、宇宙人と交信しているとなれば、深刻なことになる。自然農に挑戦し、挫折する若者は相当数いる。自然農がすばらしいのなら、誰にでも出来るものとする必要がる。福岡農法に憧れる。これは一度は誰でも通る道だ。福岡氏は科学者である。しかし、宗教的色合いを持って、その自然農を主張するカリスマになった。そこで科学性が後退する。農業者を持ち上げる、報道。出版。特異な位置に受け入れたがる社会背景。りんごがりんごとして実る当たり前の事を、出来るだけ、平静な事実として受け入れる必要。村八分に対抗し、耐えるには、宇宙人との交流するしかなかったのかもしれない。そのどこか違う者が、今持ち上げられた違うものになったが。これもまた村社会にとっては好ましいとは限らない。