ふるさと納税
ふるさと納税が、参議院選挙前の話題化している。どんなものかと少し調べてみると、なるほど、これは安倍政権そのものだと思えてきた。一見思いやり的で、地方格差是正が旗印に出来て、弱い物の味方のような振りも出来る。ところが、これが単なる精神論にすぎない事は、税に詳しくない人間でもすぐにでも分かる。これが出来ると、1兆2千万憶円が地方に移行する可能性がある。と言ってもふるさとのある全員が、希望した場合だそうだ。私などはどこをふるさとにすればいいのか。東京で育った人が、今沖縄に居る場合などはどうなるのだろう。経費がかかる割りに、効果はないと言う試算が出ていた。やり方がいかにも表面的なのだ。地方の独立性を持たせ、財源を地方に移管する。こういう方向で行くと、繰り返し発言しているのだから、その通りやれば良いだけの事。それをやらないで置きたい。あるいはやりたくても簡単には出来ない。そこでしょうがないから、やるそぶりだけは見せておこうと言う政策だ。
一方、地方交付税を削減すると財務省は力説している。地方の独自の権限を与えると同時に、財政的にも独立しろと言う考えだ。競争原理を地方行政にも持たせようと言う、考え方だ。それで駄目なところは、夕張市のようにしろ。こういう考えだ。つまり地方の行政が、信用ならないのだ。訳のわからない、要らない箱物を作っては、その運営経費に音を上げているのだ。こんな馬鹿なことをさせては置けない。と言うのが、財務省の官僚の考え方だろう。地方地方で自分の力量を考えろ、と言う事だろう。確かに、財務所の言うとおりだ。ところが、この競争原理的考えだけで行けば、弱者はいよいよ弱者として、放棄されることになる。資本主義的な能力主義が格差社会を作り出す。これが、見え見えになったのでは、参議院選挙が危ない。
安倍氏持論の憲法改定論も、極めて似ている。再チャレンジ論も同根だ。競争原理で、行こうじゃないか。平等の競争なら、結果差が開いても仕方がないじゃないか。こう言っている。結果強いものは、強く。弱いものは更に弱くなる。日本の憲法は、軍事競争を否定しているのだ。全ての国際紛争を、非暴力的に解決する事を、日本人は希求している、事になっている。再チャレンジの機会があるのは、確かに大切だ。しかし、私が何度挑戦しても、朝青龍に勝てるわけがない。そんなことは、誰もが実は認識している。地方の山村で、農業に従事しているものが、挑戦権はあるとしても、商品経済の競争に勝てるわけはないのだ。持っている条件が違う。
たまたま山村でも、沢蟹の養殖で成功する人は居るかもしれない。特殊解を持ち出し、そういう人も居るのだから、平等の競争だと力説する。特殊解はどこまで行っても一般解にならない。政治は一般解を求めるものだ。実は安倍氏のふるさと納税は、地方から極めて遠い感性だ。毎日、1つの集落が消えている。消える集落すらなくなるらしい。この事態を解決するには、都会生活者の思いやりなどではなく、きちっと税制を変えるしかない。食料は世界の平等の競争など持ち込んでは成らない。その上で、食糧の自給が日本に必要なことを認める。山村の存在が、日本の環境保全に、暮らしの見直しに必要な事を認識し、その維持を政府の責任で行う。実は安倍政権は地方の事など、眼中にない。ふるさと納税と呼ばれるまやかしは、単純に参議院選挙対策のアドバルーンだ。