教育再生
教育再生と言う事は、かつてはいい教育が行われていて、それが崩壊してきたため。再生しようと言う感覚だろう。そのかつて行われたいい教育のイメージは、どこにあるかが一番の問題ではないだろうか。私には自分の子供の頃の学校教育が、今より優れていたとは到底思えないのだ。1949年生まれだから、昭和30年代の教育の暴力的な人格無視の教育は、今の時代であれば、日々が犯罪のような状態だと思う。教師が、生徒に対し暴力を振るう事が、当たり前のように公認されていた。教育というものは、矯正のようなものと考えられていた。それでは、大正自由教育のような教育をイメージできるだろうか。個性尊重の紳士の教育など、タガが緩んでいるのを、絞めなければという、今の検討の方向から言えば全く違うだろう。再生と言う発想がダメなのだ。よく言われるのが駅前商店街の再生。再生の発想では、どうにもならない。新しく創造しなくてはならないことだ。
アメリカの教育を先進事例として、例えば大学教育の産学協同、あるいは教員の評価性の導入。こう言う事が考えられている。教育にも能力主義の導入。例えば、学校教育などまどろっこしいから、予備校に高校教育を任せたほうがましだ。こういう考え方だ。つまり、教育が何を目指すかが、わかりさえすれば、そこへの道筋は立てられる。その目指すところが、分裂、崩壊しているから、教育がおかしくならざる得ないのだ。教育が経済的豊かさを求める物なのか。どうも中国の教育はそんな傾向があるようだ。経済優先主義が、教育を崩壊している。格差差社会の深刻化が、教育を無目的化している。今の深刻に崩れ始めている教育現場の状況は、そこにあると考える。
思い浮かぶのが教育の自給。地域自給と言う事を考えてゆく上で、教育の自給を大切にしないと、ある種のタイプの人達が、地域社会から抜けることになる。勉強が出来ると言うような人が、地域社会に必要かどうかは別にして、立身出世が、明治以来の価値観になって、地域社会をバランスの悪い物にしたことは確かだろう。読み書きそろばんはともかくとして、地域らしい食糧生産の技術の教育が不可欠だ。農法と言うものが、夫々の生き方と関連しているので、なかなか難しい。機械を多用する大規模農業技術など、教育分野では不要な技術だと思うが、農業高校ではこちらが主流だ。有機農業農家の研修の場合は、その個人の思想の伝達のように見えてくる。教育は具体的な方法を伝えればいいので、個人的な思想などは出来る限り控えるべきだ。もし、いささかでも思想があるのなら、その生き方や、農法に、現れているはずだ。
伝えるべきものは、人間の生き方だ。よく生きるすべを伝えるのが、教育だろう。国家は、国家として都合のいい人間を教育しようとする。企業は企業に都合のいい人間を教育しようとする。人間は誰の都合で生きているの存在ではなかろう。その1個の人間がその人間を全うする為の、すべを見につける道筋に教育がある。だから、本来教育は学ぶ側が、その学ぶ内容に相応しい、教師を連れてくる必要がある。学ぶ物の希望で、学ぶ内容が決められる必要がある。国家が統制しようと言う事が、そもそも教育には相応しくないやり方だ。農の会の仲間に、そうした教育的な要素を口にすると、何となく拒絶的な空気になる。みんな、教育にともなう強制的空気を嫌悪しているからだろう。しかし、私自身が一番教育を受けていると感じるのは、農の会の活動を通してだ。身を正される、日々だ。