絵は人間が描くものである。

   



 絵画で一番大切なところは、絵は描いたものであると言うことだ。どこの誰が描いた絵かわかることである。何を伝えようとしているかが分からるようなものでなければ成らない。何かを写しているのではなく、何かを作り出している創作物が絵というものだ。

 筆跡鑑定では100人が100通りの字を書いていて、誰の字であるか筆跡は判別できる。同じことで、絵画は描いた人間が判別できるものである。まして、絵が表現であるとすれば、何を表現しているかが分かるものである。何かを表現しようとしていなければそれは絵ではない。

 表現内容は人間が出てくるのだから、その人の世界観と言っても良いと思うが、描いた人それぞれの哲学であり、人間である。その世界観が借りてきたものであれば、空疎なことになる。表現をしていない写し取ることだけのものや、他人の様式を模して絵らしき様相だけのものは絵とは言えない。
 
 制作者の表現である事が芸術としての絵画の大前提である。どこの誰が描いても同じような、襖の装飾や掛け軸を描いているわけでは無いのだ。芸術作品は世界観が画面に現われていなくては成らない。そこに特定の人間が描いているという表現が表われていなくてはならないと言うことになる。

 これは近代絵画の基本的な考え方だ。明治時代、こうした西洋の絵画芸術論を学び、日本の油彩画というものが生まれた。ヨーロッパの後期印象派と遜色の無い、日本は立派な絵画を残したと思う。西洋の文化に遭遇して、日本文化を示さなくてはならない。

 そうしなければ日本が押しつぶされてしまうという、東西の文化の衝突が起きて、日本人の文化の再構築が起きたのだろう。それが中川一政を最後に消えた。今あるものは、私をふくめてのことだが、社会性のある絵画失われた、方角を見失った世代である。

 絵画が社会に対して何の影響も与えることの出来ない時代である。音楽と比べればよく分かる。音楽は社会に大きな影響を与え続けている。音楽は社会をすくうこともある。励ましてくれることもある。社会の品格を思い起こさせてくれることもある。

 残念なことに絵画はその社会性を失った。しかし、趣味と呼ばれる枠組みの中と、商品と呼ばれる枠組みの中で、膨大な数の制作が行われている。私が描いているものは、「私絵画」という自分という人間がよりよく生きるために、制作自体に力点をおいたものである。

 大きく言えば、趣味という範疇になるのだろうが、禅僧が座禅をやるのも趣味の範疇かと言えば、やはり修行は趣味と言うことでも無いだろう。現代の社会は商業主義だから、宗教の世界まで商業主義なのかもしれないが。本物の禅坊主であれば、何も生み出さない修行だけである。

 禅坊主は修行だけしていて、お布施を頂き生活する。修行を尊い者として、お布施をする志すら乏しくなっている。そもそも禅坊主は、いわば半禅半Xである。何とか生計を立てて、例えば自給農業をして、あとは禅に生きることになるのだろう。

 私絵画も同じだと思っている。座禅を商品に出来ないのと同じで、私絵画は商品では無い。修行の一里塚である。修行の度合いが表われるものだ。その絵を見て、まだまだ不足する修行に進むと言うことになる。修行に終わりは無い。

 祖父の黒川賢宗は曹洞宗の僧侶である。境川村藤垈向昌院の住職である。境川村役場に勤めていたが、同時に自給自足をしていた。向昌院には200軒の檀家があったが、お寺の収入は極めて少なかったのだろう。子供を学校に出すために勤めをしていたと思われる。

 いつも曹洞宗の僧侶は自給自足で暮らすものだと言っていた。自給自足の暮らしに誇りを持っていた。何しろ、水から燃料から食料まで、すべてを自給自足に暮らしていた。そんな山の中の貧しい寺院での暮らしであったが、5人の子供は大学に通わせた。

 わたしが絵を描く以上自給自足の生活をしなければならないとかんがえるようになり、山北の山の中で開墾生活に入ったのは、祖父の影響が強いのだと思う。石垣島でのぼたん農園を始めたのは、開墾生活で得た自給自足生活の安心立命にある。

 絵を描くと言うことは、自分の修行である。そう考えるようになった。そのことを考えて居る間に、次の時代の絵画の在り方ではないかと思うようになった。芸術としての絵画は、商品絵画とは別に、修行の芸術の道として生き続けるのでは無いかと言うことだった。時々そういう人に出会うようになった。

 何故絵を描くと言うことに多くの人が惹きつけられるのか。趣味という範囲を超えて、自分の人生を費やしてしまうのか。よいご趣味ですねと言われるような領域とは別の描き方をしている人が、かなりの数存在する。自分の人生を本気で絵に向けている。

 それは描くという創作の行為が、人間というものの本性に触れる行為だからなのだろう。描くことで起こる感動と充実は他に代えがたいものがある。描くことで自分の本質に迫ることが出来る手応えがある。芸術としての絵画は自分自身のためのものとして、新しい意味を持ったと言える。


 だからこそ、描くということが画面ではとても重要な意味を持つ。禅画というものがあるが、これが私絵画に一番近いものだとは思うが、私絵画は悟りの境地を絵にすると言うことでも無い。不十分である未熟な自分をそのまま表すことが私絵画である。

 仙厓や白隠の禅画とは異なる、現代の禅画がこの先にあるのかもしれない。今生きている人の生き様の絵である。生きる日々の修行の過程の絵である。到達した世界観を表現するのではなく、今の自分の現実を見つめ直すために描く絵画である。

 具体的に考えれば、のぼたん農園の望ましい方向を見つけ出すために描く絵である。のぼたん農園の本質を確認するために描く絵である。美しい農園とはどのような農園なのかを構想するために描くと言うことであろう。

 結局たどり着いたところは、いつも考えてきた「田んぼをやるときは絵を描くときのように、絵を描くときは田んぼをやるように。」まさにこの心境である。美しいという価値観は眼が見付けるものであるが、絵を描くと言うことを通して「見る」をみがいているわけだ。

 美しい楽観園が出来たときに私の絵もどこかに到達するのかもしれない。
 

 - 水彩画