豚や牛やニワトリは食べられても仕方がないのか。

一昨日は「石垣島しっぽの会」の譲渡会だった。旧市役所で毎月行われている。カヨ子さんは手伝いに行く。何匹かトライアルが決まったと喜んでいた。石垣島の捨て犬捨て猫ゼロを目指す活動である。2002年に始まった活動だから、10年継続している。
生き物を飼うことは命を預かることである。預かった命を捨てる人がいる。捨てると言うことは殺すと同じことだ。悲しい人である。そんなことをしないで済むように、せめて去勢施術をすることである。去勢をしないで、外飼いをすることは不幸を広げているだけになる。
ペットショップで犬の売買が安易に行われることが無くなるように祈っている。可愛いから飼うこれだけで命を預かることは出来ない。命を預かることは自分の成長のためにはとても大切なことだ。特に若い内にすべきことだと思う。買うとしても、ペットショップは止めるべきだ。
タッズケンネルから犬を買ったことがある。京都にあったブリーダーである。欲しいなら家まできて欲しいと言われた。犬を頂きに行って、しばらくするとタッズさんはなんと我が家でどのように犬を飼っているか、確認に見えた。鎖で繋ぐような飼い方をしていたら、お金を返し引き取ってゆくと言うことだった。
長年養鶏業を生業としてきた。卵の販売もしていたが、ニワトリを育てて捌いて、販売していたのだ。どう考えても罪の深いことである。その一方で犬や猫の殺処分0の活動にもいくらか関わってきた。いかにも偽善的である。生き物によって命に軽重がある事をどう考えれば良いのか。悩んできた。
辛いことである。考えを持つべきなのに、しっかりと持てないまま偽善的に生きてきたことになる。この問題の根本には、人間のご都合主義によるごまかしと言うことが大半を占めているのは事実だ。菜食主義だから命を大切にしているとも言いがたい場合もある。
何故か魚は食べると言う考えの人もいる。魚も立派な命である。魚は食べないとしても、野菜を育てるときには昆虫は害虫と呼んで殺す。命に軽重が無いとすれば、殺して良いような命はあるはずがない。この点君子は庖厨を遠ざく
というわけにはいかない。
自然界にある生き物は捕って食べても良いが、育て食べることはおかしいというのもどうかと思う。それにしても食べるために育てるという行為が許されるものと考えていいのだろうか。人間本来であればやるべき事ではないのだろう。
田んぼをやっていれば、イノシシや鹿には手を焼く。やっと収穫まできて、全滅させられて、一年が無駄になるというような経験もある。それで罠の狩猟免許を取り、イノシシと対決したこともある。しかし、余りに腕が悪く、1頭のイノシシも捕れなかった。まあ幸いだったとも言える。
石垣島でもイノシシの害が増えているという。絵を描いていて見かけたことは何度もある。シーラ原田んぼではイノシシを見かけて、ネットで田んぼを囲んだ。害獣駆除を正直ありがたいと思っている。それでもイノシシは殺して良くて、イリオモテヤマネコは殺してはならないと言う考えはまやかしのようなところがある。
シュバイツアー博士が病気の患者を助けるために、病原菌を殺すことは許されるのだろうかと悩んだと言うことが、小学校の教科書に書かれていた。博愛主義の意味を考えようという課題だったと思う。今考えても分からない。分からない課題をやるというのは良い事だと思う。
その時はシュバイツアーという人は少しおかしい人だと思った。そんなことで悩むのは、まともではないと思った。シュバイツアーに悩まないで良いと説明しようとしてうまく出来ない。随分難しい課題だと小学生ながら悩んだ。確かに命という意味では病原菌も人間も価値が変わらないはずである。変わらないというのも違うか。生と死を明らかにするのが、仏教の修行。
犬猫の殺処分は無い社会の方が望ましいと考える人は、たぶん97%ぐらいの人だろう。殺す他方法が無いと考える人は3%ぐらいでは無いだろうか。可愛らしい子猫がいらない命として殺処分される姿は誰にとっても感覚的に受け入れがたい。
可愛くなければ良いのか。カラスの殺処分は良くて、可愛い白ハラクイナは行けないのか。イヤ畑に害があるから殺して良くて、益鳥のツバメだから大切にしなければならないものなのか。命に関わることはすべて難しいことになる。
人間を信じ切っている犬や猫を殺処分する事のつらさは、地獄の鬼のような気持ちになる。この仕事を受け持ってくれている人には感謝しなければならない。そうか、人間の処刑の仕事を担当する人もいるのだから、人間は辛いものだ。
殺処分される犬や猫を救える手助け法があるなら、いくらかでも手伝いたいと思っている。小田原にいたときも関わってきたし、石垣島に来てもカヨ子さんは関わっている。これは倫理の問題と言うより、感情的に殺処分が耐えがたいという気持ちに発している。
可愛いという感情的なことを言えば、水牛も可愛いし。ニワトリも可愛い。犬から学んだものは沢山ある。犬を飼うことは人間の成長に不可欠なものだと考えてきた。私自身犬から教えられたことがあるからだ。信頼するという気持ちを教えられた。
エサを上げることを忘れてしまう私を責めない犬。責めないが故にエサを忘れてはならないと身に浸みて、二度と忘れることはなかった。子供の頃から、犬猫ニワトリと飼っていた。石垣島に来ても飼っている。猫は疲労回復してくれている。
人間が生きると言うことは食べなければならないと言うことになる。食べないで生きられれば良いのだが、そういう訳にはいかない。コロナウイルスだって生きながらえるために、人間の身体に侵入して増殖する。それで殺される。
生きると言うことを罪と考える宗教もある。どの宗教も生き物を殺すことを良しとはしていない。しかし、生きていくためには、命を頂くことになるので、その範囲を定めている。しかし、生き物を食べるために飼うということは将来無くなる。
代用肉が出来るだろう。それでも本物の肉が食べたいとか、鯨肉の方が美味しいとか言う人はいるだろう。どうもこういうことは、突き詰めて考えても現実的では無い。やはり病原菌は殺しても良いし。自分が飼う生き物の命には責任を持つ。命ある食べ物は大切に頂く。それくらいで行くしか無い。