パリの外国人語学学校の思い出

   


 今はこんな形で絵を描いている。絵を描く材料は車の中に積み込んである。朝その日に描きたい絵を運び込んで出かける。写生に出かけるのだが、見える場所を描くとも限らない。しかし、外の光の中で光の状態だけは参考にしている。

 外国人が日本に来るために、日本の各種学校に登録をするというビィザの取り方がある。私も同じ事をしてフランスに行った。パリにあるアリアンセフランセーズと言う名前の語学学校であった。一応その学校に留学をするという形で、フランス大使館でビィザを取得した。

 それは最初から虚偽申請であった。ナンシーに行くつもりで準備をしているのに、ナンシーの美術大学の登録は、ナンシーに行ってからやった。ナンシーの美術学校には2人の日本人がすでにいた。1人が植村さんという方で写真学科にいた。もう1人の方はナンシー大学に登録をしてはいたが、どこか田舎の方に部屋を借りてすんでいた。たまにナンシーに出てくるだけだった。

 ナンシーに行くのに観光ビザでゆき、ナンシーで三ヶ月で美術学校に入る事ができるか不安があった。観光ビザが切れてしまうのが心配で、パリの語学学校に登録だけ日本から行ったのだ。方法は簡単なもので、高校の卒業証明書と入学申請書をフランス語訳して貰い送っただけだ。

 お金は数千円を払ったのかもしれない。それもパリに行ってからだと思う。その学校には日本人が溢れていて、何100人もいた。そして本当にフランス語を勉強している人もいた。植村さんもその学校に最初登録したと言われていた。当時フランスに行く人のかなりの数の人がその方法を取っていた。

 アリアンセフランセーズの入学許可書というものを添えて、フランス大使館に申請すると、すぐビィザがもらえた。ビザがあるので少しだけ安心してフランスに行けたと言うことである。ナンシーに行ってからナンシーの美術学校に入学できたので、アリアンセフランセーズには行くことはなかった。

 美術学校に入学できれば、カルトセジュールと言うものがもらえた。滞在許可書である。美術学校に入学が出来たのは日本人の留学の前例が沢山あったことと、日仏文化協会がナンシーにあったからである。ナンシーの日仏協会にはドランデールさんという元日本大使だった方がおられたからだ。

 金沢とナンシーは姉妹都市で、交換留学生も隔年でいた。毎年金沢から、訪問団が来ていた。金沢美大の美術史の先生でフランスに長く暮らしていた方から、推薦状もいただいていた。こう言う条件だったので、ナンシーの美術学校に入ることが許可されたのだろう。

 それでも、ナンシーで事が進むまでは心配でパリの語学学校の入学許可だけはもらっていた。結局は使う必要は無かったのだが。その後、パリの美術学校の入学試験を受けて、ザバロの教室に入れて貰った。ナンシーの美術学校にはお世話になったのだが、余り勉強にはならなかったので、パリに移ったのだ。

 昔の話を書いたのは、今日本に来る外国人が同じような手段で来ているというからだ。違うのは来るときに学校の費用を前払いさせると言うことだ。前払いさせておいて、きちっとした教育を行う、準備が不足している。来日する人の中には私と同じで、目的がその学校に入る人ばかりでない。

 大学を出てフランスへの留学を何故選択したのかと言ってもよく分からない。最初は日本の大学の大学院に行こうかと考えた。美術学校出身ではなかったので、美術学校がどういう教育をしているのか、興味があったのだ。しかし、教わりたいという先生が見つからなかった。

 それなら、フランスの美術学校に行く方が絵を描いて行く上で、何か見つかるかもしれないと考えた。フランスの美術学校の教育のほうが、美術教育があるかもしれないと考えたのだろう。それは今思えば間違った選択ではなかった。

 ナンシーの美術学校も、パリの美術学校も、確かに絵を描くと言うことを深く考えることが出来た。絵を描くと言うことは教わると言うことは少ない。自ら自分の絵を探求するのは、どこにいても一緒だ。探求をする条件をボザールは用意しているという事だった。

 フランス人の人は美術教師になるために、美術学校に来ている人が多かったのだと思うが、日本人は絵描きになるためにそこにいるだけだった。卒業する人は滅多にいなかったと思う。ザバロのアトリエには10年もいる日本人女性が2人いて、1人は卒業を目指していたが、なかなか試験には通らないと言われていた。学科の授業はソルボンヌで受けることになっていた。体育の授業まであると言っていた。

 日本人留学生のほとんどはモデルがいて、いつでも描けるという条件があるので、そこに来ているという人が多かった。学校が日中開いている間は常に学校にいて絵を描いていた。週に一度は夜にダンスクロッキーの日があった。この日は夜中まで描くことが出来た。

 10年ぐらいしてもう一度パリの美術学校を行ったのだが、全く日本人がいなくなっていたのには驚いた。いずれにしてもフランスの大学は授業料がなかった。これも留学した魅力であった。日本の大学院はお金が高かった。パリに行く方がお金がかからなかったのだ。

 一度いくらかお金を払えと、学校の事務所で言われて払ったのは健康保険料だった。これには健康診断もあった。後は一切無料だったので、今思えばフランスには感謝しなければと思う。お金がなくとも絵を専念して勉強が出来たのは、あのすばらしい条件があったからだ。あの濃密な時間が自分の絵の元になっている。

 パリの市内には10カ所ぐらいの学食があり、ここで安く食事が出来た。確かプチパレの地下にも学食があって、近かったのでよく行った。下宿はサンフロランタン通りという、コンコルド広場とサントノーレ通りの賑やかなところだった。

 ボザールまで歩いて、10分くらいでその道筋がルーブル美術館だ。学校の行き帰りに良く美術館に通った。学生書を見せれば入場無料だった。裏口から入り、表口から出ると近道だった。今のガラスのピラミッドはまだ無かった。ポンピドーセンターが出来て、パリらしくないと話題になっていた頃だ。食事は学食で食べていた。夜学食でパンを貰って帰り、朝食べていた。

 旅行に行っても余所の国でも学食で学生証が使えた。夏休みにはユーレイルパスでヨーロッパ中の美術館巡りをしていた。一等車に乗れるので、列車の中で寝ていて、昼間は着いた街で美術館を見ていた。だから、ミラノにいて、翌日はウイーンで、翌々日は又ミラノというようなことをしていた。

 文化というものにフランスは鷹揚だった。何故こんなに厚遇されるのかとフランス人の学生に聞いたことがある。ダビンチはモナリザを持ってフランスに来てくれた。また、ダビンチがフランスに来てくれるかもしれないと行っていた。
 
 金沢大学にいたときも、フランスの美術学校にいたときも、自分の力で何とか学校に行くことが出来た。今思えば、高度成長期と呼ばれる良い時代だったと言うことなのだろう。アルバイトをしながら、勉強が出来る。こう言う条件が今の時代は失われた。

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