絵はどうやって描くかではなく、何を描くかなのだが。

   



 こんな感じで毎日絵を描いている。今は暑いので木陰で描いている。別段直接見ている場所を描いているわけではない。見ないのだが、見える場所で描いていたい。時々確認に見るくらいである。描いている世界の中に身を置いていないと、絵を描く何かが確認できない。絵として良くしようというわけでもない。その場を写し取っているわけではもちろん無い。自分の絵を描きたいに尽きる。

 絵を描くということはここがなかなかやっかいで難しい。いい絵が描きたいと言うことは、ないわけではない。いい絵と言うことがはっきりしていないと言うことになる。絵は表現手段としては、半分は終わったものである。残る半分は自分に剥けての確認行為なのだと思う。

 誰もが芸術的な絵画だと認めるような絵は、ルネッサンス時代ならあったのかもしれないが、その後は時代に評価された絵が、時代が移れば評価されなくなると言うことの繰返しではないだろうか。今の時代には特に絵画を評価すると言うこと自体なくなった。美術評論というものがなくなった。書く人は居るのだろうが、ネットで探しても、見つからない。人間に影響を与えるような絵画の意味が失われたのだとおもう。

 それでも絵を描く人は過去のどの時代以上に多く居るだろう。絵を描きたい理由は描くという行為を通して、自分という存在に向き合えると言うことだと思う。出来上がった絵画の結果的な意味よりも、描く行為から生まれる、自己存在との対峙。その対峙の姿が絵という画面にあらわれる。ここが歯ごたえがあり、面白いと言うのが、多くの人が絵描く理由になる。

 絵はどうやって描くかではなく、何を描くかだ。学校で教えてくれるのはどうやって描くかである。描きたいものは誰もが自分で見つけるほかない。リンゴを描きたいというのであれば、リンゴをリンゴらしく描く方法は学校で教えてくれる。食べたくなるようなリンゴを描きなさいとか。リンゴは腐るものですよとか。リンゴは果実であり、子孫へと命をつなぐものものですよとか。描く意味のヒントもくれるのだろう。問題は何故リンゴ描くことにしたかにある。

 何を描くかは、海を描くとか、リンゴを描くというような、「何かが」あれば分かりやすいことなのだ。海を描くのではあるが、海を通して何を表現するのかと言うことになる。ここから目的が不明瞭になる。

 海が美しいものだとすれば、その美しさを描くと言う人もいるだろう。ところが何故美しいものを美し描くのかと言うことが、絵を描く「何か」と言う問題に繋がっている。感覚的にははっきりとしている美しいと言うことの、自分の存在に関わる意味が明瞭では無い。美しいは何故描くかの答えにはまだ十分でない。

 絵を描く本質の問題としては、美しいものを美しく描くと言うことの前に、作者が何故それを美しく感じているのかがある。美しの根源的な理由は何なのか。同じ海であるのに、大津波の後の海は不気味なものでしかなかった。海の美しさは消えた。美しいだけでは何を伝えようとしているのかが十分ではない。

 美しさというのはきっかけではあるかも分からないが、美しさの意味と言うことになると、難しいことになる。描くものの気持ち次第で変わるものが絵であるのか。この心境次第で違って見える美しい海の、向こう側に心境を超えた自分の見ているがあるような気がしている。感情を通しての美しいだけではない、絶対世界に通ずる感覚とでも言うようなもの。

 表面的な美しさですませておくのでは、装飾品である。自分自身が装飾品を作り出して、満足出来るのであればそれはそれでいいのだが。自分が見ている世界はどうもそれだけではない。美しいからと言うことが理由になるとすれば、その程度の価値観しかないのかと言うことになる。

 美しいと言うことが描き始める要因であることはありうつことだろう。その美しさの意味と向かい合うことがなければ、自分と向き合うことにならない。自分と向き合うことなしに、客観的な美を求めるのであれば、それは通俗である。自分自身が美をどうしても描かなければならない必然にまで至らないのであれば、芸術とは到底言えない。

 そういうことも芸術として美術を考えている学校ならば、教えてくれるのかもしれない。絵ばかり描いてきて思うことは、絵を描くことは総合すると言うことということになる。生きるというようなことも。美しいというようなことも。一つの画面で総合する。
 何故、美しく感じるのだろうか。こんなことをぐずぐず思うことが画面に現われてくる。今日一日を充分に生きるという気持ちも、画面に現われてくる。そして、この見えている世界を動画面に表現するのかと言うことも、すべてが描いている画面に結果として表われている。
 画面というものが、生きているすべてを総合しているから、絵空事では耐えられないのだろう。そこで、少しでも生身の自分が刻印された画面に近づきたいと言うことになる。絵はどんな言葉に代えてみても、やはりまだまだだから、納得がいかないのだろう。

 目の前にある、自分が描いたその絵からしか始まらない。描いた絵を語り合うほか無い。それが出来ないような絵であれば、絵画とはまだ言えないのではないだろうか。絵らしきものはいくらでもある。絵のようなものもある。しかし、自分の対峙し自己存在の意味を表明するような絵はなかなか無い。

 絵の仲間がいるというのは絵を同じ次元で語り合えると言うことだろう。そういう人間を持たなければ絵は進まない。昔は漱石が坂本繁二郎の牛の絵を批評したりしている。現代では、絵のことを評論する人はいない。絵画評論が成立することもない世界になっているのだ。

 絵を描くその先にあるものは、自分という人間の世界観を示すことになる。だから世界観のないものには絵は描けない。どこの誰にも世界観はある。そういう世界観を絵は描くべきものなのだ。その世界観に向き合うと言うことに意味がある。装飾としての商品絵画に対して、表現内容を評論したとしても意味が無いからなのだろう。

 ただ描いた絵が、ある人には価値あるものであるとすれば、その絵の世界観が深いものであるからに違いない。誰にも絵にすべき世界観はあるのだが、他人から見てそれは絵だと思える世界観のある絵は、人に伝える価値のある世界観を持っているからだろう。

 そう思いながら、絵を描いている。そう思うとこれでは到底まだまだダメだと思わざるえない。それでもちゃちなものかもしれない世界観をしめそうとすると どう描くかということが出てくる。どう描くかなどと言うことは、世界観が明確であれば自ずと定まるはずである。その世界観に相応しい画面かどうかを自分で判断すれば良いだけのことだ。

 ところが、これがなかなか分からないのが絵だ。世界観が不明確なものである上に、それが絵画として表現されているかどうかが疑問になる。しかもそこには個人の持つ感性のようなものが作用して、感じよい方に進めている。感じが良いというのも世界観の表れなのではあろうが、それではまだ表現とは言えないと思っている。

 

 - 水彩画