総理大臣の責任とは何か。

   

安倍総理大臣は改ざん前の文章を見ても、私や私の妻が関係がないことは明白であると。たぶん国会で3回発言を聞いた気がする。私には明らかに関係しているとしか読めないので、大きな行き違いにびっくりした。総理大臣という存在の意味をどのように考えているのだろうか。これが金正恩夫人の名前が書かれていたら影響があるだろう。では習近平夫人の場合も多分影響がありそうだ。つまり政治体制をどう考えるかで、判断は異なる。安倍氏は日本の総理大臣というものをどういうものだと思っているのだろう。アベ政権の政治というものは、ソフト独裁ととらえるほかない。命令をしないでも、自分の利害によって先回りして従う姿。以前、自ら李下に冠を正さずとやはり国会で発言した。その通りではないだろうか。総理大臣の品格が日本の品格なのだ。安倍氏は競争主義の操縦士である。総理夫人がここまで詐欺師にかかわることが、ゆがんでいるのだ。それだけでも総理大臣として辞任すべきことなのだ。夫人は、主人も評価しているとまで発言しているではないか。教育勅語を暗唱する幼稚園生の演出に騙されたのだ。右翼的資質を利用されたのだ。

安倍氏の登場ほど、嫌な感じを受けた総理大臣はいない。日本が最後の橋を渡ろうとしている。そしてその意図の実態がつかめないのだ。木偶人形だとか、操り人形だとか。腹話術だとか。ひどい批判アベ登場以来重ねてきた。そして、いまあの嫌な感じが間違いなかったことを強く感じている。恐ろしいことではないか。日本を奈落の底に引きづり込む総理大臣である。ソフト独裁の傀儡なのであろう。背景に鵺が存在するに違いない。その鵺がボロを出したのが今回の森友事件であろう。鵺は日本会議だけではないだろう。日本の保守勢力の最後のあがきなのだ。敗戦以来の怨念のような暗い情熱の塊が、黒いエネルギーとなって安倍晋三という人間に取り付いて、無意識に動かしている。もちろん当人は自分で動いているつもりに違いない。ところがあるレールに乗せられて、自動人形のように、へらへらと心にもないことを口にしているとしか思えない。ここが嫌な感じがしてならない。

今回の失敗も、失敗という意識では心に響いて居ないようだ。それゆえにあの改ざん前の文章を見て、かかわっていないことが明らかだと平然と言い切れるのだ。これは、個人としての知性をうしなっているという事だろう。一方麻生氏はあの憎々し気な態度に、人間が見える。畜生はまったと思っていることが出ている。世間はこの傲慢な態度に腹を立てているが、麻生氏を憎まれ役として、この後辞任してほとぼりを冷まそうという戦略なのだ。恐ろしいのは安倍氏の方なのだ。この事件はアベ政権を官僚たちがどのように判断しているかの、表現である。それは加計問題も、前川問題等にも良く出ている。自民党アベ独裁といえるような状況は、議会制民主主義を内部から腐らせてゆく。少々の間違いが起きても、政権交代が起きないとなれば、政権党の政治家はすべて従うだけになってゆく。そして官僚はアベ政権にへつらう人間で固まってゆく。その弊害が起こした事件が続いている。それは良いことも悪いことも含めて、民主主義ではない要素で社会が動き始めてしまったという事だ。政府に従う、お上に従う事が自分の有利になるという社会が出来つつある。

政治にかかわることはすべて賛否両論ある。社会はその総意で形成されている。民主主義が成立するためには、取り入れられない少数意見をどう政治が尊重できるかである。日本という社会は長い物には巻かれろ。お上の御威光。このような歴史的な傾向が強い社会だ。民主主義社会を作り出すためには、まだまだ努力が必要なのだろう。戦後70年のその努力が、アベ政権によって水の泡になったようだ。忖度と言われるようなものは、社会のあらゆる場所に蔓延して、そういう見えないものによってことが動く傾向が強まっている。選挙にもそういう傾向が強まっている。原発再稼働は反対の人が多数派の地域でも、何故か選挙では再稼働派が選ばれる。日本人を動かしている要素が、実に打算だけになってきている。このあたりを良く見抜いているのが、アベ政権なのだろう。理念なき社会。それは日本だけでなく、トランプアメリカも、イギリスのEU離脱も同じなのだろう。これは資本主義の競争の原理がもたらした、人間の変貌という事なのだろう。

 

 

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