つぎの時代の困難を思う。

   

つぎの時代の大変さを思わざる得ない。競争主義と拝金主義が徹底されてゆく時代。自己利益が正義のように主張される時代。政治は自国の利益という観点だけで行われてゆく時代。それを良しとする有権者。社会全体の経済は良くなっているにも拘わらず、生きづらくなっていると思う。格差の存在。価値観としての拝金主義が堂々と主張され、評価されるようになったからだ。ホリエモンが自民党の衆議院議員の候補になったあたりから世の中は変化していたのだろう。資本主義というものが行きすぎてきたという事なのだろうが、資本主義というものは行き過ぎまで進まざる得ないところに問題があるのだろう。ホリエモンを犯罪者とは見ない社会ではないか。国家資本主義と言える中国が登場すれば、その中国と競争するためには、アメリカのように自国主義を標榜して、弱者を踏みにじることを恥じない国にならざる得ない。中国は社会主義であると表明しているが、社会主義とは程遠いい国家資本主義だ。

若い人と接していると、我々よりもはるかに善良で、心正しい青年が多いいことに驚くことがある。よい青年が果たして、このどうしようもない世界で生きて行けるのかと、本当に心配になってしまう。私は、高校の時も、大学の時も、やたら突っ張っていたと思うが、少数派であるという事は思わないで済んだ。正義はあの時代も少数派ではあったが、正義の価値を主張することは社会は認めていた。現実的には少数派に違いなかったのだが、多数派を形成している現実主義はどちらかといえば肩身が狭くて、余り存在が目立たなかった。未来を変えようと考えることを正義として主張できる空気があった。ところが、今はどうだろうか。この自己利益だけの現実主義者たちが、臆面もなく自分たちの正当性を主張しては恥ない。要するにトランプ的に自己利益を正面から主張する態度が、まともだとされる状況になっている。

私などもう歳をとってしまっているので、追い込まれたしても大したことはないが。若い人たちの心正しい人たちのことを思うと、申し訳なくて仕方がない。善良な若い人がその善良さを維持して生き抜けることを願うばかりである。その方法は極めて難しいだろうと思うが、一つあるとすれば、仲間を見つけることだろう。その仲間が見つかるのであれば、一人とは違う。仲間を見つけることも難しいに違いない。それでも居ない訳ではないだろう。私は金沢大学で良い仲間を見つけることができた。生きてくるうえでの指針になった。そのまま笠舞の下宿が今に続いている。仲間と目標を探すことができた。私が絵を描いてこれた理由は、金沢大学の美術部があったからだ。そして、次に水彩人の仲間に出会えたからである。絵を描く人の世界も、名誉欲の強い人が幅を利かせるような嫌な世界であった。しかもその世界では評価されることもなかった。それでも偶々絵を描く同志が見つかった。本音で語り合える絵の友人を持つことができた。それで今でも前向きな気持ちで絵を描くことができる。

農の会の友人も同じである。30年前一人の自給自足の為に山の中で開墾生活を始めた。にもかかわらず、いつの間にか友人が一人、二人と増えて、今では仲間で農業を模索している。様々な幸運があったのだと思う。まだ世の中に拝金主義を下らないとする空気があったように思う。農の会ぐらい、労働と配分を別に考えるという事を受け入れようじゃないかという人もいてくれた。しかし、世の中ここまで拝金主義になると、新規就農を希望する人たちの中には、拝金主義的意図で新規就農を目指す人も少なくない。少なくないどころかそれを当たり前として、恥じない人たちの方が多いい。次の世界に生きる人は価値観が違う人のなかで、どうにか生きなければならない。若い人が道を見つけることは、私達の時代よりもはるかに大変であろうとおもうが、まずは友人を見つけることだ。

 

 

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