ゲームオタクとは言わせない

   

対戦型のコンピューターゲームで競う「e(エレクトロニック)スポーツ」の普及を目指す動きが本格化している。日本では子どもやオタクの「遊び」と見られがちなコンピューターゲームだが、世界的には「競技」として注目され、国際オリンピック委員会(IOC)もスポーツの一つとの認識を示している。日本でも今月1日、プロライセンスを発行する団体「日本eスポーツ連合(JeSU)」が発足。世界を追撃する態勢が整いつつある。

プロゲーマーというものが存在して多額の収入があると言われている。将棋や囲碁にもプロが存在する。最近国民栄誉賞を授与した。次は、ゲームオタクが国民栄誉賞を授与する時代なのだろう。明らかに社会の方角に間違いが起きている。これが、拝金主義の行く末なのだろう。お金になるならそれも良いではないかと、子供にゲームを進んでやらせる親も現れるに違いがない。ゲーム塾も生まれることだろう。もうあるのかもしれない。将棋や囲碁が学校教育で行われている。コンピューターゲームの授業が誕生する日も近いのだろう。お金になるという事が正しいこととされる時代の悲しい現実である。人間が腐り始めていると思うしかない。政府がお金の為にラスベガスを日本にも作ろうという時代である。世界との競争に勝つためには、景気を良くして、失業率を改善し、国際競争に勝つには何でもありという事だろう。

人間はどこに向っているのだろう。人間が生きるという事の意味を間違えている気がしてならない。一日一日を充実して生きるという事は、どういう事だろうか。お金を稼ぐこと自体を目的にしたような生き方では、最低の生き方としか思えない。ゲーム依存症というものがある。れっきとした病気とされている。アルコール依存症や賭博依存症と同質なものだそうだ。少し違うのはゲーム依存症は若年層に多いいという事らしい。私にはゲームにはまり込む気持がわからないではない。将棋や囲碁にはかなりはまり込んだし、ビンゴゲームにも陥ってしまった。今は絵画依存症かもしれない。田んぼ依存症かもしれない。農業依存症かもしれない。フィギアスケートに熱中して、オリンピックで金メダルであれば、素晴らしいと絶賛される。その内ゲームに熱中して金メダルをとり、年間所得が1億を超えれば、正しい生き方とされるのだろうか。

ゲームはやったことがないのでわからないが、その後の生き方にある。ゲームで世界一になって、腱鞘炎で引退する。その時に何が残るかである。人間として生きてゆく上での大切な価値観をゲームから得られるのかである。絵に熱中するという事は自分という人間を突き詰めるという事である。絵を描くことを通して、自分という人間を育ててゆくことだ。そういう絵の描きかたがあるという事だ。絵を描くにしても、収入の為に描くという人もいるだろう。装飾品として役立つとすれば、社会的意味もあるのだろう。しかし、芸術としての絵を描くという事は、それとは全く異なる。人間の哲学である。自分の生きるという事を探るという事だ。絵の場合、装飾としての絵画と、芸術としての絵画とがあるので誤解があるが、装飾絵画は商品絵画という事である。ゲームには哲学はあるのだろうか。ゲームには人間の深淵に踏み込む世界があるのだろうか。

人間はくだらないことに陥りがちなものだ。それを防ぐのが親の役割だろう。親がしっかり生きていれば、ゲームなどくだらないものだという事ぐらいは理解できる人間に自然になる。私が将棋にはまっていた時に将棋を止めろとは親は一言も言わなかったが、将棋などくだらないという自覚はあった。生きるという事にはもっと大切なことがあると思っていた。アジア大会では正式種目として取り入れられるそうだ。世界はおかしな方角にひた走りである。こんな時代であるからこそ、何が大事なものであるかを、しっかりと見定める必要がある。

 

 

 

 

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