大豆の会のはじまりまでーー2
山北に住み始めたのは1988年39歳の時だ。1986年に土地を購入し開墾を始めて3年目だった。荒れ果てた杉林の伐採と、畑の整地に休日毎に通い2年かかった。完全に移住したころには自給自足の実現を本気で試す気になっていた。杉林を一本づつきり開いてゆくと、その場所は富士山も相模湾も見えるなかなかの場所だった。シャベル一本ですべてをやる。機械力を使わないと自分なりのルールを決めた。山を切り開き平地を作り野菜を作る。田んぼも作らなければならない。すべての水を集める装置も作った。巨大な水槽を幼稚園が廃棄するので頂いて、組み立て水を貯めた。そのころはインターネットの情報もないから、すべては思いついたままの試行錯誤である。稲作の本はあっても田んぼの作り方などどこにも書いてない。農家の人に聞いてみても田んぼの作り方を知っている人は居なかった。地面を掘り、一面に粘土を運び込んで層を作るのだともっともらしく教えてくれた人さえ居た。
田んぼを作るには平らな地面をまず作る、大雨の日に雨の中その平らな地面をかき回した。すると徐々に水が溜まり、田んぼが出来た。あっけないほど簡単なことだった。山に降る水が最後は田んぼに入るようにしたので、一度溜まり始めた水は無くなることはなかった。早速、直播の稲作をやってみた。見事な稲になり、秋には立派な収穫になった。面積は30坪くらいだったが、1俵のお米が収穫できた。何とかこれで一人の人間のお米が確保できた。自給が本格化することになる。初めての稲作にもかかわらず、意外に簡単なことだった。冬場は麦を作った。翌年は田んぼを倍に広げて2人が食べれるようになった。野菜もいろいろ作れるようになったのだが、必ず山菜を山で採取して1品は食べるようにした。いろいろやってみると、自給自足の食事には保存が重要だという事が分かった。それが味噌づくりを始めることに繋がって行ったが、そのことはまだ後に書く。
山北有機農業研究会という仲間を作ることになる。これが農の会の始まりである。ただいつからというよりも、周辺の有機農家をお訪ねしてお手伝いをしては、農業の先生が出来てきた。私の家の隣でみかん畑をやっていた人から畑を借りて、畑を隣地にまで広げていた。その方が川口さんでMOAの人だった。川口さんからこの地域で有機農業の組織を作りたいので協力してほしいという話が来た。山北に越してから3,4年目の1992年だったと思う。いっしょにMOA関係の方の家を訪ねたりした。1994年3月に川口さんの家で、MOAの前田さんと相談をした記録がある。この時、今までのつながりをまとめて、組織を作ることを相談した。この日が農の会の正式な始まりの日だったようだ。前田さんは心の実に暖かな人で、二人で夜遅くまで未来の農業組織作りの話をした。前田さんはその後転勤された。
山北の町会議員だった瀬戸さんの奥さんが戦後の生活改善クラブの活動でいろいろされていたのだそうだ。保存食のことなどとても詳しく、また面白くて参考になった。味噌づくりを最初に教わったのは瀬戸さんである。味噌の溜まりを醤油として使えば、結構使えるなど話してくれた。ご近所の農家の方など誘ってくれて、一緒にいろいろ勉強することになる。MOAの指導員の方が来てくれたこともあった。大仁農場の見学にも行った。徐々に新しい農業仲間が増えていった。あれこれ学習会をしている内に、仲良くなり、一緒に田圃をやらないかという話になる。養鶏をやっていた友人から田んぼにできる土地があるので、やってみないかというお誘いがある。みんなで意気込んで準備を進めた。ところが自然農法でやるというなら、水をお前たちにはやらないという拒絶に出会う事になる。当時はまだ自然農法にそれほどの反発があったのだ。この拒絶がむしろ、活動に本腰を入れるきっかけになる。共同の田んぼがやれるようになるのは、その後塩沢の奥で田んぼを始めるまで、時間がかかった。
この顛末は次回3回で。