絵を描く生き方

   

山北斜面の畑 6号 前に住んでいた家から少し下った所。今は車では行けなくなってしまった。

お金は全くの幻影である。お金は代替物であり、実態のないものだ。お金の事を書くのもおかしなことだが、お金に人生は動かされやすいと思う。お金と人生の充実は違うことと肝に銘じて置かなければならない。自戒である。生きて来てみると金さえあればと、考えたことも確かにある。幸いにも私の65年の結果ではお金に困るということはなかった。お金があろうがあるまいが、絵を描く事はできた。照準は絵を描けるかである。実際明日の100円がない事も何度かあったが、困ったとは思わなかった。お金があるからと言って絵が良くなることなど全くない。むしろ貧乏が絵を育てたという事例の方が多いいのかもしれない。少なくとも、お金と絵は何の関係もない。絵のありがたいところだ。極端にいえば、落ちている鉛筆のかけら一つでも絵は描ける。あの貧乏で有名な素晴らしい絵描きの長谷川利行はマッチ箱の箱の中に名作を描いている。

芸術とお金は関係がないのは当たり前のことだが、実はどんなことでも、生きると言う事はお金と関係がない。繰り返すが、お金は幻影である。生きると言うことは日々の暮らしである。日々の暮らしは身体を動かし、その日その日を生き抜く事が一番張り合いがある。たまたま泡銭を得ても、人生とは関係が無い。だから、とばくや、宝くじはやった事が無い。人間一日一時間100坪の土地で働けば、生きるだけはできる。今のところ健康である。普通の状態で行けば後10年は何とか大丈夫だと考えている。その後は、分からない。その後も何とか生きなければならないので、今の予定では年金とソーラ―発電である。幸と言うか、むしろ働いている間より、収入は安定しそうである。何と言うばかばかしい事か。フランスにいた頃お金がいよいよ無くなり、怖かった事はあった。学食の1食のご飯で、何ヶ月も過ごした。ナンシーの学食はお変わりが出来たので、食べられるだけ食べていた。

絵をいくら買ってくれた人がいた。絵がいいからというより、多分菩薩道である。私には大画家になりたい邪念がないから、協力しようと言う人が時々現れたという気がする。現れなかったとしたとしても、その状況の中で何とか絵を描いていただろうとは思う。今20年は描く紙がある。筆がある。絵具がある。何の不足もない。これは幸運とも言えるが、私だけが特別とも思わない。誰だって好きな事が見つかり、それだけを考えていれば、道は見つかるものではないかと思う。そこまで好きならば、誰かが何とかしてくれると思っても良いくらいだ。と言っても、人間弱くになってきているし、頑張れ、頑張れと競争に追い立てられる時代である。好きな事を見つけること自体が難しくなっている。幸運にも父親が、好きな事を見つける事が、若者の仕事だ。と教えてくれた。本当に好きな事を見つけられれば後はどうとでもなると教えてくれた。それは今になってみると正しい言葉だった。

私はたまたま絵を描く事が好きだった。絵さえ描ければと考えるようになったのは、学生の頃である。絵は子供のころからかなり熱中して描いてはいたが、好きだという意識は無かった。勿論絵さえ描ければ後の事はどうでもいいなどと若いころは思わなかった。絵を描いている内にその面白さに取りつかれた。最初は絵が自分の好きな事なのかと疑うばかりであったが、やっている内に絵に段々のめり込んで、これしかないと感じるようになった。始めてみなければ、好きなのかどうかなど分からないものだと今になると思う。お金になると言う事が絵の評価にもなるような世の中だ。売れているからいい絵描きだと思いがちだが、売れているような悪い絵とも言えるわけだ。好きで描いていると人の評価が気にならなくなる。ここがいい所だ。

 - 水彩画