農の会へアジアのお客さん

   

25日東大の池本先生が農の会に、アジアのお客さんを連れてきてくれた。ベトナムやタイ、バングラディシュの方々だった。集荷の日で農の会でも10人ほどが集まっていた。英語で話せる人が3人いたのでそれぞれに話が盛り上がった。池本先生が行っているアジアの貧困や格差の問題で、その分野の専門の方々が、各国を回りながら研究する集まりがあるらしい。その現地見学と言うことで農の会に来てくれた。農の会のあり方は、アジアのどの国でも参考になる形だと思っている。中国ではそのことを、熱心に話したのだが農家の方の中には、そのことで気持ちが通じたように思える人はいた。しかし、案内してくれる政府の方や研究者の人には、何をいまさらと言うような感じだった。猛スピードで追いつけ追い越せという空気の中で、聞いてくれる雰囲気はない。それこそ競争力だけが興味のようだ。むしろ、農業では日本の失敗から学んでほしいとおもう。

以前、タイの少数民族の責任者と言う方が見えた時には、実に優しい方で、私の農場を一日かけて、ゆったりと見てくれて、これならできそうだ、村でみんなに話してみると言われた。笹村農鶏園は世界の大抵の場所で可能なやり方のつもりだ。別段大きな機械は必要ない。一日一時間働けば食糧が確保できる。土地もせまくても大丈夫だ。1000㎡あれば家族が自給できる。と言うようなことはアジアには普通にある。と思っていたが、見せてもらった範囲の中国では失われていた。アジア各地には残っているようで、実の所もう失われている気がする。日本がここ50年で農業を崩壊させているように、中国も似たようなことが、今進行形で起きていた。多分アジア全体が、東アジア4000年の農業をここ50年で滅ぼしてきているのだろう。日本では今更、国際競争力のある農業など、世界の現状の困難さを、全く見ていない。アジア各国で起きている困難な事態を、競争でさらに押しつぶそうなどと、馬鹿げている。

この資本主義経済の限界という歴史の転換点に置いて、人間が今後求めなければならないことは、何に対しても、精神の自由な暮らしである。経済にとらわれない暮らしである。その為にはシャベル1本で自給する技術である。アジアにはまだかろうじて残っている形態が、色々ある気がする。そうした技術を繋ぎ合せて、各国で自給農業がよみがえり、農の会的な緩やかな連携の場がアジアに生まれることになれば、素晴らしいことである。手工業的な自給の技術は、暮らしの中にはあふれている。例えばロケットストーブを最近考えている。これは燃料が4分の1から5分の1で済むというのだから、自給の技術としてかなり優秀である。今度農の会での取り組みとして提案するつもりだ。アジアのどこでも実用化できる技術である。

アジアの方々はゆったりしている。気持ちが緩やかである。攻撃的でない。控え目で穏やかで、接しているだけで気持ちが和やかになった。こういうお客さんなら、何時でも大歓迎だ。本当なら、あのタイから見えた少数民族と言われていた方の村に行ってみたいものだ。きっと時間も緩やかに流れているのだろう。そういう村で、私の自給の技術が生きるのであれば、本望である。日本は日に日に危うくなるばかりだ。血迷って、日本農業の国際競争力など虚言である。国民向けごまかしの建前論である。日本農業が20ヘクタールから30ヘクタールに5年間で成るなら、今まで何をしていたのかということになる。全部嘘で固めているに過ぎない。こんな中間答申を出した人間達は、未来までその名前を記録する必要がある。こうやって日本を滅ぼしてゆくことを眺めているのはつらい。辛いが、今は自分の出来ることをやるしかない。

 - あしがら農の会