食品の安全とは何か。

   

放射能汚染が広がって以来、食の安全についての問い直しが起きている。食の安心安全、という言葉を農水省まで言うようになって、農薬化学肥料に対して、曖昧な垣根が出来たように思う。普通の農家にしてみれば、国に許可された資材を使って、安心安全じゃないというような差別を受ける不愉快な感じがあるだろう。それでも何十年の時間経過があり、、ある程度住み分けが出来ていた。一般に有機農産物を選択する消費者は、美味しいからというような、もう一つのすっきリはしない基準を、口にしながら選択してきた。そんな状況に、地産地消と言うような違う枠組みがさらに登場して、混乱や混同が起きて、今に至る。地場だから安心と言うような言葉が一般的である。福島のテレビニュースでは、福島の地場産市場で取材して、買い物客が「やっぱり地元のものは安心安全だから」と、あえて言わせたりしている。一体、安心安全は何か。放射能が政府の言う、500ベクレルが基準が分かりやすいとは言えない。つまり、高いとも言えるし、低いともいえる。

放射線カリュームでいえば、以前から500ベクレルを越える食品もあったことが分かった。今後こうした食品は売られないようになるのだろうか。原子力を聖域にするために、放射能の安全性について政府は触れないで来た。一方、食品は自己判断だというのが、自給思想の根本にある。人間の生きる安心安全の一番の根底は、食べるものの確保ということだ。世界では今のいまも飢餓で死んでいる人が居る。日本のお米を飢餓地域に援助して、カドミ米だからと、拒絶されたことがあった。私ならお腹が減れば食べる。カドミの害が、1%の人にあるなら、99%を選択して食べるだろう。食べなければ100%死ぬのである。まずは食べるものがあるとことが、安心安全の必要条件だ。その意味で、小麦、トオモロコシの価格が倍に成るような高騰が起きていることは、この先、世界の食糧問題はたやすいことでないことが予測される。放射能汚染は日本一国の問題ではない。フランスやアメリカはベトナムに、中国に原発を作るだろう。又どこかで原発事故が必ず起こる想定である。

日本政府とアメリカ政府はこのどさくさの中で、日本のTPP加盟を画策している。これは食糧確保と言う、国家の安全保障上大きな不安定をもたらすことになる。アメリカのいいなりにしかなれない国に、日本をしようと言うことに成る。食糧のない国とは独立のない国である。そのことをひとまず置いて置くが、むしろ現状の深刻さはそこにある。放射能汚染問題を考えると、安全基準と言うものに大きな開きがあることが分かる。まず年齢差、男女差、これで全く基準が違う。たばこやお酒と同じという風に考えたらいい。しかも、大多数のものには関係のないことが、1000人に一人とかには命にかかわることもあるというリスク。この分かりにくい問題少し具体的イメージで言えば、大気汚染の連想。子供たちには、化学物質過敏症の人位の割合で影響がある。というなら、小田原も入る気がする。大半の大人にはない。福島に行けば、三宅島の火山ガスくらいか。流山あたりで、川崎のひどかった時代ぐらいか。

生きていることは、常にリスクの中にいると言う自覚。飢え死にする場合さえ想定した方が良い。食料の安全は、やはり各々が決めるしかない。政府など信頼しない方が良い。疫学的には放射能でがんで死ぬ人の比率が増えるだろう。それは食品添加物の影響を受ける人と受けない人が居るように、人によって違うとしか言えない。それは農薬の害でも同じだ。そうしたことは原理主義的に避けたいとするなら、すでにこの地球に住める場所も食べるものもない。全体が改善しない限り、一人だけ放射能シャエルターに逃げ込むことなど出来ない。つまり、原子力発電所が世界から一基も無くなる道以外、人間の安心安全はない。福島の原発事故からのイタリアや西ドイツの人達の判断である。日本人はどうか。相変わらす、ほとぼりが冷めたらまた原発に戻ろうという勢力がある。再軍備論によく似ている。原発の廃絶を本気でやらなければ、結局は人類が滅びる。損をしても自分達はやる。こういう国や人もいるのだ。

昨日の自給作業:麦刈3時間 累計時間:27時間

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