芸術の力
次々に押し寄せる作業をこなしていたら、3月が終わろうとしている。昨日はアンデパンダン展のカヨ子さんの作品の搬出に行った。この間水彩人展も29日に終わった。長い展覧会であった。初日、銀座の一枚の繪の会場で打ち合わせを始めようとした時に、大震災が起きた。17日は会場で制作をした。畑にあった菜の花を持って行き描いた。こういう時に絵を描くということは、どういう意味があるのか少し考えた。絵の力を信じて描いてみた。絵はメッセージである。菜の花の絵は一枚の繪の方で、チャリティーにしてくれるそうだ。確かに絵がいくらかのお金に成るなら、義援金という支援もある。しかし、私の絵が被災者の心に響き、このような時にいくらでも役立てるのかどうかが問題なのだろう。絵の力が問われる。
20代絵を描いてみようと考えたのは、大学の混乱の中であった。あのときも一つの分岐点であった。絵を描くことで世界を変えられないかと思い描き始めた。今でもそう言う気持ちを捨てた訳ではないが、道がはるかに遠いということは認めざる得ない。いったい40年間何をしてきたのか。ある音楽家が、音楽で震災を応援すると言われていた。なるほど偉いものだと思いきや、7回も海外で募金のコンサートをして、義援金を集め送ったというのだ。それでは音楽の力の意味が違う。被災者がその音楽を聞いて、平和な気持ちになったり励まされるかどうかが、音楽の力ではないか。絵が役に立つかどうか。そのことはこの間、水彩人展を開催していて、頭に引っかかリ続けたことだ。見える方は当然少なかった。被災地で開催すればいいのか。そう言うことでもないだろう。絵に出来ること。
被災された方の中に、私の絵と心の通ずる方がいたら、その方の暮らしの中に私の絵が存在してもらいたい。その方が生活の再建をされてゆく過程を、共にしてもらいたい。もしそう言うことが出来たら絵も役立つのではないだろうか。私の大叔父はピカソから直接絵を2枚もらった。困ったらこれを売って絵を続けろと言われたそうだ。しかし、良く考えてみると大叔父はその絵に励まされて絵を生涯続けたのだと思う。広島で2次被爆して、パリから戻ってそれほどの時間は許されなかった。桑原福保(1907−63年)という人である。甲府の武田神社の傍で絵画研究所をやっていた。沢山の子供たちが集まって絵を描いていた。油川の家の長男として生まれたが、絵を描いたために家を出ることになったと聞いていたが、真実は知らない。
絵がどのように役に立つのか。芸術が存在するとすればこうした転換期にこそ意味が無ければならない。大上段に構えてみたところで、私の絵が代わり映えする訳でもない。学生の時にハンドマイクの怒号の中で絵を描いていたことと、爆発しかかる原発を前にして絵を描くことは、繋がっていない訳ではないはずである。黄色い菜花が、どんな絵だったのか気に成るところである。写真の作品は畑とその向こうにある林の絵である。畑が終わり、林に続くあたり。木々が境界を示している。木々の間には不思議な闇がある。この奥は耕作地とは違う世界ですよ。と告げている。人間の手入れの自然界との微妙な駆け引きを感じる。