最高年齢者の確認

   

110歳を超えるような稀有な、ありがたいお年寄りが、実は生存確認がされていなかったという驚き。ルーズであるというのも悪くはないのだが、厳格なところと、いい加減なところのさじ加減が少々おかしい。こんなにめでたい地域の誇りのような存在を、何故大切にしてこなかったのだろう。本来なら、誕生日ごとにお祝いである。小田原では、100歳になると、市長が訪問することなっているらしい。先日風呂屋で、98になるおばあさんがいる人が話していた。おばあさんが、「もう一息だ。」と言ったというのだ。「市長に言いたいことがあるから、後2年は死ねない。」というのだそうだ。110歳になっても、お祝いに行かないような行政の方が不思議である。地域社会の誇りのはずだ。男の平均寿命は伸び悩みであるが、日本の長寿という誇りは格別である。こういうもろもろを含めて、地域の暮らしが崩壊を始めている。

100歳を越える尊い方が、日本には4万に以上いるのだそうだ。少々不明でもさすがにこれが割り込むということはないだろう。すでに50人以上も不明が判明。母方のひいおばあさんは100歳を前にして亡くなってしまった。誠に残念とみんなで嘆いた。それくらい100歳越える人は稀有な例だった。実在不明が日に日に増え、かなりの方がすでに亡くなっていたらしい。この不在も多様なようで、お年寄りの世界も安穏とはしていられない、長生きはしたもののというような具合だ。しっかりしているようで、行政というものはこの程度のものだと考えておかなければならない。お年寄りを把握できない地域社会の暮らし方のほうに、恐怖を抱く。お年寄りの孤独死とかいうけれど、この他人事社会の方は深刻な状況。お年寄りを大切にすることが出来ない社会が見えてきた。

子供がいる訳ではないので、自分の問題として、ぼけないうちに対策を講じる必要がある。対策と言っても、老人施設に入るタイミングとか、その資金とか。一応あと10年70歳までは現役的に暮らせるだろうと思っているが。甘いか。生きているか死んでいるのかさえ、どうでもいいとされてしまう社会なんだから、わが身の始末は、当然自己処理が前提であろう。本来なら、70歳ぐらいまで頑張れば、後は社会の方で面倒見てくれたっていいと思う。そういう社会なら、70歳までの暮らし方もだいぶ違うだろう。無意味な自殺も減るに違いない。何とか70にたどりつけば、後ははゴワ算に願って、チャラにしてもらい。みんな平等に死ぬまでもてばいい訳で、今更金儲けも、名誉欲も始まらない世界のはずだ。

社会福祉、老齢福祉、戸籍制度、住民票、想像以上に日本が崩壊を始めている。骨組みが崩れ始めている。所在確認などある意味どうでもいい。こんなことをきっかけに行政が恥とばかり、個人の暮らしに踏み込んでくることは、願い下げだ。この時代に適合した、人間の新しい関係を見つけない限り、土台が腐り始めている社会は、暮らしにくくなるばかりだ。年金の不正受給問題の方より、孤独な断ち切られた家族の姿に、絶望的なものが伝わってくる。よほど、暮らし方を変えない限り、社会としての体裁が整わないことになる前兆である。親せき関係が失われた。地域社会も失われ始めている。そして家族というものがいよいよ失われてきている。こういうことも格差という社会構造の現われに違いない。所得格差も当然あるが、文化的格差のような、日本人としての暮らし方が消えようとしている。

昨日の自給作業:田の草取り、1時間 枝豆、トウモロコシ蒔き。1時間 累計時間:8時間

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