古墳

   

「古墳時代の始まりと足柄平野」 ~足柄平野の古墳成立期を考える~ シンポジュームがあった。
久野百塚と言われるそうだ。百と言うのは普通多いいを表わして、百無いこともあるが、久野には100以上の塚があるそうだ。かもめ図書館で古墳のシンポジュームが開かれた。古墳時代の足柄平野には、様々な宝が隠されている。年代的に正確なところは分からないが、300年から500年の頃の足柄平野の様子である。相模川地域に較べ、足柄平野は発掘が進んでいないそうだ。二つの理由があると思う。古くから開発が繰り返されて行われていて、土壌が撹乱されている所が多いこと。もう一つは、今現在大規模開発が行われないために、発掘に入れないということ。そのためもあって、考古学的には、相模川から、あるいは三浦半島から、関東全体への広がりが考えられているらしい。しかし、古代の経済地理的というか、地政学的というか、足柄平野が空白地域であるとか、交流の要で無いとか、背景に経済的基盤が無いとか、そう言う事は想像しがたいところがある。

縄文期どのような地形の所に、縄文人は暮らしていたか、海あり、川あり、山あり、湧水あり、日当たりの良い、小高い丘を背後に配するくぼちのような土地が多い。安全で暮らし易い場所である。食べ物の採取がしやすい場所である。弥生期に入り、農耕が行われるようになる。当然田んぼや畑が行いやすい場所に移動をする。徐々に平野に降りてゆくイメージがある。農耕に伴って、技術や種苗や生産物の移動が始まると、他部落のもの、先端技術集団との交流と言う事が、大きな意味を持ち始めるだろう。暮らしの場所も変わってゆく。海辺の船着場、川辺の交通要衝地。に人の暮らしが広がって行く。富の集積が始まれば、外部の権力的力が働くようになる。西の方から、水利や、土木や、農耕技術を携えた開拓集団も入ってくる。先進地域中国文化の影響も大きく加わっているだろう。

考古学的には、小田原高校の場所に見つかった古墳が、あるいは千代の古代の築土形態が、前方後円墳として、確認されるためには、まだいくつものハードルがあるようだ。しかし、あっても何らおかしくはない。と言うような事が、今回のシンポジュームでの専門の学者の方々の意見であった。そのおかしくは無いという推測はきわめて重要だとおもう。足柄地域の現在に繋がっているからだ。これからの方角を定める作業として、足柄地域の特徴を考える時に、縄文と弥生の文化が混在して、存在していた地域。足柄平野には、西方の先進技術を一早く取り入れた人達が暮らしていた。東に北へと文化をつないで行く、人達が暮らしていた地域。その基盤があってこそ、室町、江戸期の交流地としての、確立があったのだろう。

足柄地域の未来を見たときに、過去を振り返り、確認できる幸せがある。学問の蓄積のお陰である。舟原でも背後の丘陵からの湧水が引かれている。暮らし易い場所であったと思われる。水位が変われば、暮らす場所も移動した。井戸の時代になり、水道の時代になる。しかし、未来を見るときには、湧水を見る必要がある。湧水に従って、どう暮らせばいいか。今やその湧水の安全性まで、不安が伴う時代である。海士族と古墳の関係の話が出ていた。海士族については、民俗学的研究が深い。両学問がもう少し、共同研究してゆけば、成果が出てくるのではないだろうか。素人考えで思ったところである。180人が集まったそうだ。不愉快だったのは、会場での非常識な質問態度である。考古学マニアと言うような人であろうか。自説を発言したいだけで、聴く耳がない。閉会の挨拶を、突然、聴衆一人が遮って「個人的な感想はどうでもいいから止めろ。」こんな発言を聞いた集会ははじめてで、がっかりした。学問は尊いものである。尊敬があって始めて成立する。

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