農業の役割

   

農業の特性は、風土に根ざしている事である。栽培技術が地域の気候や土壌に従っていることは当然であるし、また、その地域の社会的条件で栽培品目から、販売方法まで異なっている。日本の農業政策が、猫の目行政で様々に変化するので、農業者として対応できないと言われてきた。いよいよ、民主党の主張する、農水省の政務次官が不可能だとまで断言した、戸別補償が始まろうとしている。今からいい結果が出ないだろうと、私の地域では感じる。ところが、日本農業も多様でそれをよしというところもあるのだと思う。つまり、この手法はわかりやすいだけに、農業の多様性には少しも対応していない。稲作から始めると言う事だが、この稲作だって、北海道の稲作と、神奈川の稲作ではまるで異なる。面積的に10倍から50倍ぐらいの開きがあるだろう。補助金の受け方だってまるで違う。米所と言われる地域や、銘柄米で自主流通中心のところもまた違う感想があるのだろう。

多様性、総合性という意味では、企業が行う畜産コンビナートのように、飼料、飼育、製品化、販売、と言う総合性が農業には求められている。農協が一つの企業のようになって、その総合性を担っている事例も沢山ある。その現われが、農協直売所が注目されている所である。これは、市場やスーパーとはどう住み分けるのか、これから始まる課題だろう。しかし、企業は既に行ってきた事で、販売を独占することで、生産コストを下げさす圧力がかけられる。低価格競争の行き着く先は、生産者への価格圧迫といことになる。小田原でも、農業者はスーパーのコストを確認して、直売所の価格は決めるのだろう。正確なことはつかめないが、スーパーでの野菜販売に影響がでてきているのは、想像出来る。流通が変化を始めている。

農の会の行っている、生産者直売方式は古くて新しい方法である。しかし、このままではただ古いだけのものになるだろう。それは総合性を失う時だと思っている。社会性と言ってもいい。行っている直売方式が社会的な存在として孤立してゆけば、変わった人間やっていることに過ぎない。社会的存在であるためには、総合性が重要である。その総合性には地域性が色濃く反映する。農業政策が、せいぜい5万人位の範囲にしか、通用しないきめ細かさが必要なように、あしがら地域には足柄地域の特徴がある。その特性を生かした総合性を生かしてゆくときに、それは逆に普遍性を持つ。どんな人がどんな事を求めて暮らしているか。歴史的にどのような地域なのか。今後の展望方向はどちらなのか。全てを踏まえうえで、方角を示せる総合性が必要なのだと思う。これが、農業進出する企業が見えないで居る部分だと思う。

利益追求に慣れた、企業精神はいいとこ取りになりがちである。農業は経済としては小さなものである。しかし、地域の循環を考えた時には、重要な要となる。儲からなくてもごみ処理はしなくてはならないように、社会が成り立つためには、循環してゆく姿を模索しなくてはならない。そのときには経済性が無い為に、失われかかっている様々なものが見えてくる。行政もやらない。企業もやらない。遠からず、誰もやらないものになるだろう。神奈川県の農業はそういう物になりかかっている。循環の失われた、都市というものは人間の本来暮す場所ではない。人間が暮らせる場所を、足柄地域に提案して行くこと。これが、農業の総合的役割ではないだろうか。これを具現化する。ダッシュ村が、テレビの世界で無いことを見てもらう必要がある。ダッシュ村を現実化したら、どうなるのか。

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