朝青龍と大相撲
朝青龍を責める気持ちが、自分の中にもある。好きな相撲を侮辱されたような気持ちが強い。人を殴るなど論外であるが。初場所6日目後の16日未明。5勝1敗とした後の事、翌日は最多勝を突き進む、大関魁皇戦。優勝争いをしていながら、大酒を飲みに六本木を出歩き、真夜中まで騒いでいたのである。それで翌日勝ってしまう。それでついに優勝である。どうした大相撲。今の横綱はマネージャーが居る。これも驚いてしまった。一 宮 章 広というらしい。マネージャーとして5年と書いてある。ブログの内容については、読んでもらうしかないが、アメリカプロレスのヨコヅナのマネージャーだったら良かったのにと残念である。日本人大関では二日酔いでも大丈夫と考えている。問題はここにある。力の差が開いてしまった。
大関魁皇は見事な力士である。姿も美しいし、態度も立ち振る舞いも格段立派である。日本人力士の中でも手本になる見事さである。負け姿のりりしさ。堂々とした表情に出さない所はさすがである。横綱になるはずだった。外国人力士がいなければ、千代大海と二人で、横綱を張っていた。大相撲は神事を起源とする、芸能である。興行である。スポーツではないはずである。神事をことさら重視するのは、江戸時代の興行形態とその禁止令の中で成立してきた姿である。あくまで武士道とは一線を画しながら、独特の世界を形成させている。底には負けてこそ美しいと言う、庶民発の美学が存在するのだと思う。強ければいい、武士のやせ我慢とは違う、美学を感じる。勝ち負けを超えた神事であるとしてしまう。庶民の暮らしには勝ちも負けも、成功も失敗もない。
強い相撲は確かに見ごたえがある。今場所でも白鳳、朝青龍戦は誰でも見たい相撲である。しかし、優勝をすでに決めた朝青龍には、あの意地のこもった、ここ一番の力は出していない。スポーツとしての一番の対戦が一番にならない。プロ野球なら、4番打者を敬遠しても点さえ入れられなければ評価される。これが高校野球なら、満塁で松井を敬遠して、一点取られても勝てばいいで、顰蹙を買う。どうでもいい対戦と言って力は抜かないのが、大相撲のあってほしい姿である。もう違う所にきてしまっている。そこで期待するのが、貴乃花戦である。貴乃花が強いころなら、意地で曙を見事に倒したように、朝青龍を投げ倒してくれるのか。どう考えても、もう貴乃花は現れない。新弟子が、親方のイジメで殺されるような世界では、なかなか希望の星は現れない。無理辺に拳骨と書く世界はどこでも滅びて行く。
朝青龍の事件はまったくの氷山の一角である。大相撲理事会が飲酒報道の直後、普通なら場所中の外での飲酒の禁止を出すだろう。出しているのかもしれない。そんないい加減なものを、見せられていることが腹が立つ。スポーツなら、いいがと言われた人がいた。しかし、オリンピックで競技期間に夜中まで酒を飲んでいるなど考えられるだろうか。それでも金メダルを取れるようなスポーツがあるのだろうか。柔道で金メダルをとって、無敵と思われた石井選手。格闘技世界一を目指して、一年必死に修行した。それで、大昔、体重もずっと下の階級の金メダリスト、もう峠を過ぎたと思われていた、吉田選手に勝てなかった。甘くは無いのである。スポーツでそんな甘い考えが通用するとは思えない。つまり、スポーツとして既に、大相撲は成立していない。朝青龍をこの際特別に、大関に降格する。横綱の降格は本来無いそうだが、この際特別に行う。止めさせるのでは、腹が納まらない。