大掃除
絵を見れる部屋を作るので、片づけを続けている。二部屋分の荷物を減らさなくてはならない。まったくなさけないかな、生涯有一物である。物があふれかえっている。一番悪いのは並べようと言う肝心の絵だ。いつの間にかすごい量になっている。11年前、山北から越した時、24年前東京から越した時、さらにフランスで描いたもの、その前の金沢で描いたもの、捨てるに捨てられないで、運んでだけ居る。残してあるものだけでも1000点ではきかないだろう。デッサンだけで、茶箱に二つある。何故に絵が捨てられないのかと、情けない限りである。あと10年は必要だろうと今回も結局残した。捨てられないのは自分が描いていく上で、見る必要があると思うからだけだ。その絵に価値があるとか、残す必要があるとかはさすがに思っていない。自分が絵が描けなくなる時点でいらなくなるものである。
中川一政氏が「最初に描いた絵で実は良かったのだ。それを誰も指摘してくれないから、生涯回り道をしていた。」そう言う事を最後の個展の時に書かれている。それは最初に書いた絵が残っているから分かる事だ。最後の絵を描きながら、最初の絵が確認できたからだ。絵と言うののはレコードに成ると、絵を描きだした頃から考えている。複製技術の進歩である。それが、10年先か、100年先か、1000年先かは別にして、必ずモナリザがいくらでも作られることになる。音楽において、現代音楽がクラシックの分野になるような事が、絵画の分野でも起こるだろうと思っている。既に中国の北京故宮美術館では、複製を展示しているらしい。本物を見たいものは別枠で申し込んで見るらしい。絵というものが、レコードに、情報に成ると言う事である。情報として意味あるものであるかどうか。そういう位置づけで自分の絵を考える。情報として、私にはモナリザより、自分が描いてきた絵が重要である。
生きてきたそのものが絵にはあるからである。全てがあるとも思わないが、かなりの情報がそこには残っている。その情報は、今の自分にとって次の事を考える上で、参考にはなる。次の絵を描く為にという意味もあるが、自分がどうあるか、どこに居るのか、どこに行こうとしているのか、こういうもやもやした所を、きれいごと抜きで現しているのが、やはり自分の絵だ。そんなことは他の人にはどうでもいいことだから、実に個人的なことだ。多分、誰もが感じるだろう、昔の写真が捨てにくい。それとほとんどいっしょである。もうひとつの山が本である。これもかなりある。本棚が、14㎡くらいの面積を占めている。これがあっちに行ったりこっちに行ったりで、こまる。以前、軽トラで2回図書館に持っていった。どうしても、ゆっくり読みたいと思う本である。そんな時が来てほしいと思いながら、井伏鱒二全集が並べてある。
それでも今回、相当に処分した。11年前小田原に来たときから、増えたぶん位は処分した。ずいぶんスッキリした。試験前に成ると、机の整理をし始めるというのが子供の頃からの、性格である。整理がつかないと始められないのである。今整理をしているのは、60からの新しい暮らしに向けての整理だと思う。いややっていることに集中しなければならない。過去の事にはこだわりを出来るだけ捨てて、今やらなければ成らない役割になりきりたいと思う。勝手に積み上げた事ばかりなだけど、何とか物にしなくてはならない事がいくつもある。どのことでもまだ終わりには出来ない。死ぬまでの時間を見ながらの整理をしている。何と茶箱の底から、黒いころもが出てきた。寺にいた頃のものだ。死んだらば、墨染めの衣を着せてもらいたい。などとこれもまだ残すことにした。