土偶展に行く

   

上野に行く用事があった。それなら土偶展である。先日、ちょろりさんから聞いていた。何しろ、国宝の土偶は日本に三体しかない。その三体が一堂にそろうと言う、またとない機会である。めったに美術展には行かなくなっているけれど、この機会だけは逃せないなと思っていた。日本人の造形の原点のようなものがそこにはある。土偶というものが、どういう目的で作られたかは、定説はないようだが、日本人の魂の在り処と、深い繋がりがあると思っている。日本人が日本人としてつちかわれる、長い長い何千年かの縄文時代。稲作と共に起こる弥生期への転換。縄文時代の日本人の実像に迫るためには、その時代の遺物は当然重要である。まして、魂と深い関わりがあったであろう、「土偶」という存在ははずせないものである。

土偶に親しく接したのは、大井町の小宮さんの所である。家の前の道から、土偶が発掘されたそうだ。それは今回の土偶展にも陳列されている、とても興味深いものである。これが、全体の中でどう見えるのかと言う事にも、興味があった。土偶にも長い歴史があり、沢山作られた時期と、途絶えた時期があるらしい。大井町で見つかった土偶は、全体で言えば一番新しいものとされている。弥生前期と言う事である。同じ場所で、炭化した稲の種が見つかっているのでそう言う事だろうと思う。以前、Takeさんが足柄地域の特徴として、縄文と弥生の混在を言われている。そういう意味で、大井町の土偶はその特徴がある。縄文的造形意識と稲作文化の混在。この弥生前期といわれる土偶の造形意識に到る、感性の変化というものには、深い意味がある。暮らし方が変わると言う事と、感じ方が変わると言う事は、繋がっている。

なんと言っても、北海道函館から出た、「中空土偶」はすごい。桁外れの作品である。国宝3点の中でも際立ったものである。但し、北海道の国宝はこれのみ。これだけの人体の造形性は、世界的に見ても屈指のものであろう。形に思想が存在し、圧倒的な存在感である。多分今ここで暮す直の日本人ではないだろうと感じた。いわゆる騎馬民族的な、狩猟民的な躍動感がある。「縄文のビーナス」と呼ばれる、長野県出土の土偶こそ日本人の原点の造形美を感じた。人体を抽象する時、どう抽象するかにはその時代の感性の総意のようなものが現れる。この造形意識は連綿と日本人の中に残っている核のようなものを感じる。八戸の「合掌土偶」は国宝にしては美が不足。国宝の認定の意味が少し違う気がした。初期の板状の土偶から、立体の土偶への変化も面白い。板状から立体へ、必ずしも、進歩しているとは言えない。リアルさとの関連。リアルさが意味をもたない文化レベルの高さ。

いわゆる縄文と呼ばれる、表面性。表面を飾る意匠の巧みさ充実。よくよく見ると、縄文のひだ一本一本にさらに、手を加えている。そうした、表面の細やかさが何故造形と連なり、違和感がないか。三角形の顔。猫のような顔。鼻はリアルであるのに、何故か唇はたらこを重ねたような輪状である。細かい連続の刻みが入れられる。鼻や耳や目と、口という物の意味の違い。土偶は全て女性像である。これも当然といえるようではあるが、そのことの持つ意味。生産。生み出す。口は食べる、声を出す。入口。土偶の目的も様々であろうが、最終的には死者との関係になって行く。骨壷。人体と壺。壺であっても良くなる。壺が魂の入れ物になる。壺の表面に貼り付けられ、刻まれた、人体。それが無くなっても壺は、人体。壺は土偶と変わらない。一切の抽象の極。

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