里地里山の暮らし

   

美しい久野里地里山協議会の活動が一年を経過する。改めて思うことは地域において市民が行うべき事は、地域で暮らしを立てると言う事に尽きる。地域に根ざして暮らしを立てる姿は、日本では極めて困難な事で、失われつつある。里山は地域に暮らしが存在してこそ、形成されてゆくものである。地域での暮らしがなくなりつつあるのが、現実である。その中で里山をどのように再生してゆくのかは、よくよく検討されなければ、歪みが生じる。負担だけが大きくなる。「里地里山を守る。」会という組織の多くは、都市化されてゆく地域で、残された自然を守る運動として活動している。当然市民のボランティアが公園的里山を出来る限り自然状態を残して管理してゆくと言う事になる。しかし、それはあくまで箱庭的な、緊急的な対応であり、本質的な意味での里地里山の保全の実現は、地域の暮らしを再生すると言う事である。

地域の林業が再生する。地域の農業が再生する。地場の仕事が再生する。このことなくして、公園的な保全活動だけでは、久野という2800ヘクタールと言う広大な地域の根本の解決はありえないだろう。里地里山協議会は登山道の再生を行ったが、この管理運営と言う事で苦労している。これからも、公園的再生を行えば当然、その後の管理を充分に考えておかないと、行き詰まりかねないだろう。現在久野川の環境調査。と言う事が会の事業として上げられている。事業としては上げられているが、どこの誰がどんな費用で行うのかと言う事が、まだ充分には意識されていない。やるべきことであるというのは、理念的に当然の事であるが、やれるかどうかは又別の事であろう。環境調査に関心のあり、実際に行動のとれる人が何人いるか。その人員で何が出来るか。こう考える必要があるだろう。

実は環境調査と言っても、様々な視点がある。先ず行うべき事は地域の聞き取り作業ではないか。子供の頃には、こんな魚がいた。こんな虫がいた。大水の時には、こんなものが流れてきた。久野で昔の話を聞くと、川の石に名前が付けられている。これは何故か。石と近しい暮らしがあったのではないか。石切り場のあとも何箇所もある。石工のような職業集団が存在したのではないか。久野の農業の歴史ももちろん把握する必要がある。薪炭林業の実際も調べなければならない。それらが久野に残る100を超えて作られた、古墳とどのような関係があるのか。この古墳の背景となる、人間の暮らしを見通す必要がある。屋号や名前の調査も必要であろう。こんな事まで到底出来ない。今の人員でどこの誰がやるのかと言う事になってしまう。しかし、大きな方角を見定めるためには、ここに暮らす誰かがやらなくては、久野の里地里山の本当の意味での理念がみえないと思う。

なぜ、改めて協議会を作り、行政も参加して、里地里山の再生をしようとしているのだろうか。小田原市も久野の里地里山の再生を考えて予算もつけている。神奈川県も同様である。担当者もいる。意義のあることと考えてはいるのだろう。砂漠の緑化のようなもので、絶望的な現実がある。根本解決には、次の次の世代ぐらいになって、いくらか可能性が出てくればと言わざる得ない。だから、ここでの活動は、常に不充分で、徒労のような疲労感が伴う。そこで大切なことは、認識を共有する仲間の存在である。水ばかりさすような、足ばかりすくうような、環境では意欲が生れない。あしがら農の会での活動が元気が出るのは、大きな方角の予感のようなものが、共通項として存在するからである。協議会というものが、何かをするというのでなく、参加者がそれぞれに活動し、その集積として協議会が存在する。協議会の名前どおりの形になることが望ましいのではないだろうか。

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