小田原城址公園のゾウのうめ子が死んだ。
ゾウのうめ子が死んで小田原市民はとても悲しんでいる。うめ子が死んだと言う話はその日のうちに、市内を駆け巡り、報道とは別の形で全市民が知る事になった。当然風呂屋でも話題になっていた。他の集まりでそのことが話題になって持ちきりだった。それぐらい、小田原で育った人には、うめ子は身内のような親しい存在だった。お別れに沢山の人が、駆けつけて、緊急にうめ子と触れ合ってお別れをした。係りの人もあまりの沢山の人が駆けつけるので、中までみんなを入れてくれて、触ってお別れをさせてくれたのだそうだ。静かな死で苦しんだ様子もなかったと言う事で、少しホッとする。一度見たことがある。まだ山北にいた頃だ。小田原城址公園に鶏がいると言うのを聞いたので、見に来た。鶏は少しいたのだが、余り良い鶏ではなかった。私の飼っている鶏を差し上げたいと思って、係りの人と話したが、いつやめるかわからないといわれた。
熱心に飼ってはいるのだが、趣味家といううるさ方が満足するレベルに、鶏の良さを保つ事は、とても難しい。鶏にしてみればそんなことは勝手な話だ。その時うめ子にあった。ゾウと言うのは悲しそうな目をしている。頭がとてもいい動物だから、自分の境遇が良く分かるのだろう。動物園にいるゾウは、必ず泣き顔をしている。それにしても、小田原城址動物園では色々の動物が哀れに飼われていて、二度と近づく気になれなかった。もともと動物園と言う趣向がどうしても好きになれない。ああした形で動物を見たいとは思わない。悪趣味だと思う。うめ子がかわいいなら、もう少し増しな飼い方をしてやれなかったのか。許せなかったので、抗議をしたことがある。その時二つの理由を聞いた。一つが職員の雇用問題。もう一つは今いる動物が死んでしまったら止めるという話。
職員の事なら、家畜動物園を是否やるべきと提言した。人の暮らしが、家畜というものに触れる機会がなくなっている。牛を見たことがない、触ったことがない。乗ったことがない。これは良くない。本来の人間の暮らしは、家畜と共にある。そうした暮らしの良さを忘れないためにも、家畜動物園は意義がある。いこいの森の山の方にでも家畜動物園を継続して、ゾウのうめ子も連れて行ってあげれば良い。と話したが、相手にもされなかった。死んだら終わりになる、動物園は哀れなものだ。城址公園で菊花展等があり、行くことがあっても、動物園は見ないようにしてきた。ゾウのうめ子はそう言う事を全部知った上で、死んでいったに違いない。それぐらいゾウは立派な生き物だ。どうしようもない人間のあり方も、分かってくれている。だから、うめ子に会いたくはなかった。
動物園は見世物として出来たのだろう。甲府の動物園には最後の日本狼がいた。私が見たのは剥製だったのだと思うが、記憶が定かではない。狼と言うから大きなものに違いないと、おそるおそる見に行ったのだが、以外に小さくて、飼っていた甲斐犬と大して違わなかった。実はオオカミと甲斐犬との交雑種だった。物語のオオカミの恐さが大げさなだけだと決め付ける、生意気な子供だった。動物園というものが、いまや動物保護施設になっている。野生で生息できる環境が、一気になくなる。哺乳動物の種の数4500として、その4分の1は絶滅の危機にある。アフリカゾウ絶滅ランクB。インド象は家畜として残っていけるだろうか。ともかく人類が増えすぎだ。アメリカ人は世界人口の僅か4.4%で20%のCO2を出している。アメリカ式グローバリズムで行けば、世界の哺乳類は全て滅びる。