生物多様性

   

「生物多様性」について、先日森谷氏からお話の一部を伺った。とても面白い考え方だったのだが。何せ時間がなかったので、消化不良のまま色々考えてみている。環境と言うと、温暖化問題が中心課題であるが。生物多様性の観点こそ、はるかに重い根源的課題だと考えている。生物多様性条約は、(1)生物多様性の保全(2)生物資源の持続可能な利用(3)遺伝資源による利益の公平な分配の3つを大きな目的の柱とする。と書かれている。実に曖昧で、190カ国も加盟しているが、何の成果もない精神的条約になっている。生物多様性について、肌身をもって重要と感じている人の方が、地球上では大多数であるのに、こうした条約を決める人が、都会の人だから、きわめて観念的な話になる。誰しも自給自足で暮してみれば、眼前の自然の姿が全ての大前提である事が、当たり前に分かる。

その眼前の自然が急速に衰えている。一番は人間の増加にある。だから、人口減少を困るように言う人の気が知れない。人口はもっともっと減らなければならない。日本で言えば、江戸時代に戻る必要がある。昨日は敬老の日で、65歳以上の女性が4人に1人。男性が5人に1人。何度も聞いたので覚えてしまった。思ったのはこの少数で日本の農業を支えてくれていると言う事。お前がいなくなればいい。と言われそうだが、人口が増やさない政府の方針が必要だ。少子化対策というのは、少ない子供を良く育てるにはどうするかが本来で。少子化はいい事だと考える必要がある。山が杉山ばかりになったのは、家が沢山要るだろうという予測だ。日本の自然の山はありがたいことに、わずかな手入れをしながら、放っておけば徐々に自然を回復する。何ともありがたい状況だが、これが遠からず、回復できないことに成ると言う事。

生物多様性を考える上で重要な事は、目の前の事を考える。都会で暮している大多数の日本人は既に自然という物を、身をもって感じる事ができない、哀れな状況に暮している自覚が必要。そうした人間には生物多様性については考える事も出来ない。そういう種類の事だと思う。世界の生物多様性云々など、言ってみてもはじまらない事だ。暮している場で感じて反応する。多様性10レベルを最高として。舟原で暮していると言う事は、多様性レベル4の辺りにいる。赤点すれすれ。世田谷辺りで暮していると言う事は2ぐらいか。銀座なら1ぐらい。箱根の上まで行けば、6辺りかも。この辺から、何とか合格点とい所。人間が暮すと言う事は6ぐらいないといけない。やるべきことは舟原を6レベルにすること。舟原にも何箇所か6はある。鎮守の森はそうだ。人の手の入らない川沿いもそうだろう。

守屋氏の話で興味が引かれたのは、多様性の哲学部分。多様性は思想だと言う事。人間が多様でなければいけないと言うように考える事と、自然が多様であると言う事は同じことである。違っているものが様々存在する事が、社会であり、自然である。と言う事は都会暮らしのような、ほぼ同じ人間が大量に必要な社会は、だめだと言う事。舟原なら、レベル4ぐらいの多様さで、人間が存在できる。翻って、水や、土壌の多様性のレベルも実は同じ。自然を多様性という前に、自分の中の多様性の確認。精神の硬直レベルも、4ぐらいか。世界で一番恵まれた、日本という自然は、かつての江戸時代までの日本人と言う、レベル8ぐらいの多様性のある人間を生み出した。これが、西欧文化にかぶれて、都会では1レベルの人間になっているのだとしたら、恐い。

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