大分県の教員汚職
【正論】文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司≪「人間の教師」の喪失≫ 大分県の教員採用試験をめぐる汚職事件は「教育」という人間の精神の根幹に関わる仕事にまで腐敗が広がっていることを見せつけるような醜態である。今日の日本の腐敗状況は、どんなことがあってももはや驚くことがないほどの進行ぶりだが、今回の「教育」の堕落は、日本人の精神の転落が、何かもう歯止めがきかない段階にいたったのではないかと思わせる。
ずーと気になっているが、報道ではほぼ忘れ去られた事件だ。少し前になるが、産経新聞の記事である。出来れば全文を読んでみて頂きたいのだが、過去と比較して、今日の堕落を嘆いている。本当に、昔は腐敗の時代ではなかったと言うのだろうか。翻って、声高に批判が出来ない自分はわずかでも居ないのだろうか。
この事件では幾つかの不思議な対応がある。大分だけが特別とは思えないこと。他の職業分野でも、類似の事件があるに違いない事。明らかになるかは別にして、どこでもあると多くの人が感じている気がする。それに類した事は、日常誰でもしているし、聞いているからだ。自分の知り合いの中に、都合を計ったり、お礼をもらったり。内々ではそんなことはありがちと思っていなのだろうか。もちろん犯罪になる範囲はさすがに少ないだろうが。就職で世話になった、あるいは世話をしたなどは、良くあることだ。賄賂をもらって、担当官が共謀して、行っていたと言う異常さは、今回は極端だが、他では一切ないごとき進み方の方が、あまりに不自然だ。文部省は大相撲にしたように、呼びつけての注意はしないのか。他人事ではないので、静かにしていて、他に飛び火しないようにしているのか。
「理想の人間像」なくして、何を教えるのであろう。知識を教えるにすぎないなら、塾の先生の方がよほどうまいに違いない。――新保氏はこうも書いている。こういう言い方は良く見かけるが、塾の先生が知識だけを教えていると言う、先入観を持っているのだろう。塾には素晴しい人間教育をされている人があふれるほど居る。その昔代々木ゼミナールと言う予備校に行って、本当の教師に出会ったとさえ思った。素晴しい体験だった。いま衆議院議員をされている、萩野氏も予備校で本当の教育をされていた。教育は知識、技術の伝達が基本だ。その伝える背景に、知識や技術の元には、必ず人間が居る。人間が存在しない知識があるとは思えない。私も7年間教師をした。その体験からも、教えるべき知識技術の意味こそ、基本だと考えてきた。知識、技術は必ず人間に繋がっている。全人教育と言っても、多くは知識の伝達を通して行うものだ。都留文科大学での人間教育はそれほどに素晴しいのか。
賄賂を使って、教員になったからと言って、必ずしも悪い教師とは言えない。この汚職の中心人物の娘は、採用試験の体育で0点だったそうだ。どうも受験しなかったらしい。それでも採用だ。それでも平気な顔をして、教師をやっていた。これはすごいと思うが、この教師に教わった子供が可哀想などとは、けっして思わない。案外子供達には良い教師だったりする可能性もある。就職試験だけに強いような教師より、いい場合もあり得る。子供がかわいそうだとかとか、決め付ける必要は全くないと思う。むしろ、教頭、校長、になる為にお礼をしなければならない、教員の職場環境は、ひどかった事だろうと思う。賄賂など耐えられない人もいるだろう。こういう人が、管理職になりたくもなれないで、止めて行かれたりもしただろう。こちらの精神風土の汚染の方が子供に良くないはずだ。
立身出世に、清濁併せ持つ。これは明治時代に始まった、日本の悪習だ。決してきれいごとで世の中できていない。要領のいい奴が、上手い汁を吸う。誰でも自分の身近の社会を見てみれば、すぐ想像出来る。絵の世界もそうだ。勲章をいただくために画策する姿を、確認した事もある。いまの時代も精神の腐敗したひどい人も居るが、過去も人間変わらず同じことをしてきた。昔は貧しかったから、抜け出し、立身出世するために、止むえずと言う空気はあった。生活が豊かになっても、少しも人間質は良くならない、ということは確かだ。欲を捨てると言う事は、どの時代でも難しい。