路上生活者が台風で流される
多摩川河原に暮していた、何人もの人が、台風9号での増水で流された。テレビではその救出劇が流されていた。ネコと一緒に流される小屋の屋根の上にたたずんでいる人の映像は、胸に突き刺さるものがあった。慌てるでもなく、特別助けを求めるでもなく。実に静かに、ただその運命的なものに、したがっている姿。生きること暮らすことが、その実相を突然あらわにした一瞬だった。実は、相模川でも、酒匂川でも同じことが、あった。昨日川に行くと、会ったはずの小屋がない。海岸の方では、何もなくなった。西湘バイパスが1キロに渡って崩れてなくなったのだから、当然、堤防より外のものは全て流されてしまった。住んでいた人がどうなったかについては、堤防を閉める前に、外に出たか確認すると閉める人が言われていたので、大丈夫だったとは思いたい。
酒匂川では夜中の2時過ぎに、突然増水したそうだ。4キロほど上流の十文字橋が流されたのが、1時半頃だから、河口周辺が増水したのは一時間後、4時過ぎにはもう一気に水位は下がっていた。中州は全て水没した。普段は島のようになり、すでに柳や、ニセアカシアのような木が、30センチもある大木になっているので、長年島なのだ。この島が、水害の原因になる、と言って取り去るべきと言う考えと、自然が一番豊かな場所に育っているのだから、そっとしておくべきだと言う考えが、ある。その中州にあった全てが、水没し、多くのものが流された。路上で暮す人でも、河原に家を建てている人達は、自立的な気概が強い。誤解を恐れず書けば、高僧に一番近い。何かは確かに違う、と言えば違うのだが。私の知る何人かの高僧も何がすごいかは分からないのだが、確かにすごい人だと感じる。高僧に、極めて似ている。としか言いようがない。
高僧の方が、河原に住んでいたとしたら、水が増水したときどうするだろう。たぶん、事前に逃げるようなことはないんじゃないか。高い所に上ることは上るだろう。それだけだと思う。死ぬ、と言う事への感覚が、全く違う。その辺に、凡人の私は恐れ入る。救助が来たとしたら、救助に従うだろう。それも拒絶はしないだろう。解脱している訳で、全てを受け入れしたがっている姿なのではないか。荒川で、事前にインタビューしたものも見た。「増水しても、そのままだなぁー。」と答えていた。このことを、安穏に暮している、凡人の私が、あれこれ意見を述べられる姿ではない。遠くから拝ませていただくような思いで、これはおかしな事だとは思うのだが、そんな所があって、私は、通る。
内閣府のアンケートでは暮らしに不安を感じている人が、過去最高の69%になったと言う。当然だろう。「生きることと死ぬこととを明らかにする。」これが仏教の原点だとすると、明らかにするとは、諦めると言う事。諦めが付いてしまえば、不安がない。諦めのつかない、いつまでも死を認めない、現代の暮らしは、何処まで行っても、不安に満ちている。それを、再チャレンジしろ、グローバル化だ。とけし立てられる。そのままで良いとは、誰も言ってくれない。同時に物質的な豊かさが、この時代のよさとなっている。しかし、豊かさが安心には成らないことは、当然で、全てを放擲する。生涯無一物。ここにしか、安心立命はないだろう。酒匂川でも、Aさんが流されてしまったかも知れないと、パトロールの方が言われていた。相模川でも同じことがあったようだ、と言われていた。報道もない、捜索もない。川を通るとき合掌をするくらいしか出来ない。