水彩人&しるべ展
9月10日月曜から、「水彩人&しるべ展」が行われる。銀座東和画廊だ。昨日は久し振りに東京に出て、展示を行った。今回の場所決めは50人を越える人数もあり、すべて、くじ引きで行った。並べて見て、スペース的にどうしても飾りきれないものだけは、移動したが、基本的には偶然に任せた。これが案外上手く飾れた。不思議なものだ。いつもあれほど、展示にあれこれ時間が掛かっていたのが嘘のようだった。水彩画がこうした形で展示される機会は、少ないと思う。なかなかいい展覧会になった。少なくとも私はそう感じた。是非多くの人に観てもらいたいものだ。私は、月曜の5時からと、水曜日(13日木曜に変更)の午後は会場にいます。
今回の展覧会は、水彩人としるべ展の総括のような、展覧会だと思う。この10年をかけて、何を求めて活動してきたか。方角は良かったか。それを確認するものだ。水彩人は全く平等な会だ。これだけでも、すでに絵の世界では珍しい。絵描きは上下関係が好きなのだ。絵だけでない。日本で、芸とつく者はみんなそうだ。建前は、個性尊重とか言いながら、すぐ家元やら、権威者が出来る。段やら、級やら、師範やら、厭な世界を作り上げる。だから絵を教えると言う事も良くない。指導などというものは、芸術の世界では弊害そのものだと思っている。マチスも、ゴッホも教わりはしない。教わったピカソはそれから抜け出て、まともになった。必要なのは、いい仲間だ。同志だ。絵は忽ち訳のわからないものになる。その自分の位置を確認することの出来る、場が必要だ。それを10年探ってきた。
今回の出品作が冒頭の写真だ。実際よりちょっと暗くなっている。「出会」の橋を描いている。出会というのは、山から水が流れ出て、広がった地形や、本流に合流するような所だ。別当出会は何度も登った白山の登山口だ。カイラギ沢(滝沢)出合は朝日連峰にあり、以前描いたことがある。地形が大きく変わる出会うような場所は、大抵の場合、惹きつけられてしまう何かが感じられる。河口もそうだ。海岸自体もそうだ。この絵の場合、水が湧き出てきて、広い台地に突然出会う。そこに橋がけられている。つまり、今私が住んでいる、舟原はそういう地点なのだ。急に広がる地形が舟の形の台地をなしている。描いている自分の位置が、暮している場所なのだが、実際の場面は志賀高原だ。何故こうなったのかは良くわからないが、何枚も描いているうちにそうなった。
気というような、得体の知れないものは嫌いなのだが、本当に嫌いなのだが。肉眼には見えないエネルギーが、発している場所はやっぱりある。火山とか、湧き水とか、昔の人が何故か信仰の対象にしたくなるような所。老木もそうだろう。そんなものに惹き付けられて、見ているのだから、絵にしてみたくなる。絵なら出来るのではないかと始める。大体は見ているようには描けない。見えているのに、描けないから尚更、面白くて止められない。所が、この出来そうもないことを、あっけなくやっている絵はある。実は、いい絵というのはみんなそうではないだろうか。中川一政氏の箱根駒ケ岳は分かりやすい例だが、モナリザだって。レンブラントの自画像だって、実はその見えない気のようなものを描いているような気がしているのだが。