「徳育」を教科に 教育再生会議

   

道徳教育の新設。小学生に1週間の自然体験、中学生に1週間の社会体験の実施が提案された。ここでの議論の内容は見えてこないが、唖然とした。教育に対して、何も考えが無いときに、でてくるのが道徳、徳育だ。本来教育の中での徳育は、教科の中で自然と培われてゆくものだ。理科の授業を行いながら、人間の徳性が育まれる。そうあるようにするにはどうしたらいいかと、お願いしているのに、徳育を教科にするでは、話がそもそも違う。何だって徳育と言えば終わってしまうだけだ。そんな事ができないのは、宗教と言う教科が無い以上当然の事だ。何が言いかが見えていない中で、国や教育委員や校長が、徳育をしてくれる事になるとしたら、とんでもないものになるか。当たり障りの無い、やってもやらなくても関係の無いようなものになるかだ。

今の学校のとんでもない状況は、誰にでもわかる。これを何とかするのに、道徳教育を教科にするでは、まるで、床屋談義だ。問題は学校教育というワクの中で、しかも公教育と言う、ワクの中で、何が出来るかを議論してもらっているはずだ。実は方法はある。暮らし教科を入れる。農作業を教科に入れる。生き物を育てる。暮らしを実感する。生きると言う事に生身で触れられるようにする。これを道徳とか言う観念的なアプローチでなく。何故具体的な方法論の中で考えて見ないのか。家庭科を暮らし科にしたらいい。食育と言う事が最近はよく言われるが、食育もその原点にたどれば、食料の生産法だ。生産に触れることで、初めて人が生きるという、底に当ることになる。生きると言う実感を知ることこそ、徳育では無いだろうか。

自然体験を小学生が1週間行う。これも悪くは無いが、あくまで授業化可能な自然体験、つまり上っ面を味わうと言う、形式的なものになりそうじゃないか。学校の授業として可能な、自然体験。そんな事を考えるなら、農作業を授業にしたほうがいい。畜産でもいい。自然と言うのを、どう捉えるかにあるのだけれど、風光明媚な、自然公園みたいなところでキャンプ生活デモすると言うイメージだろうか。都会に暮して、教育は完結できないという事なのだろう。子供が育つには、都会では無理だ。と言っているようなものだ。もちろんそうなのだ。人間はあんな人工的なところで育つ事はできない。そもそもそれを変えないで、学校教育をいじる事が無理なのだろう。都会の学校こそ、学校農園が必要だ。家畜園も必要だ。

歯がゆいのは扱う事のできない宗教の問題だろう。宗教を問題にするなら、公教育はありえない。イスラムの学校で、キリストを神として教える公教育になる。統一した徳育がありうるのか。イスラムの倫理と、キリスト圏の倫理が、日本の公共という名の下に、統一できると考えうる矛盾がある。倫理と宗教は不可分で、日本が、イザヤペンダサン、が言うように実は日本教の信者的傾向があるから、道徳を教科にと言う、愚かな思考が生まれるのだろう。多分そうした発想の基には、教育勅語の精神のようなものが、存在しているのだろう。宗教で言えば儒教的なものが基本となるのだろうか。道徳が一つである。と考える危険。教育は手段が必要なのだ。道具となるものが、教科だ。美術と言う授業は絵を描くと言う事で、人間を育てている。どう育てるかの共通の素材が、美術だ。絵を描く行為を通して、人間の自由や、夢や、可能性を体感する。それが教育のはずだ。

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