小田原市自治会総連合
小田原は日本で一番の自治会加盟率の町だと聞いたことがある。実態は分からないが、舟原では100%の加盟率だと思う。73戸ですが。このところ増えたそうだから、75戸ぐらいになったかも知れない。戦前が50戸の集落だったそうだから、50%増加したと言う地域だ。40戸ぐらいが戦前からの家で、35戸が戦後住み始めた家という感じだ。風習と言うか、地域の付き合いの仕方は、相当古い時代のままのようだ。この状況に、自治会と言う形がどう適合しているのだろう。当然戦前に出来たものだ。正確にはわからないが、寄り合いのようなものが、江戸時代からあり、それが変遷する形で、今の自治会になった。ここに事が複雑化する要因がある。戦後のアメリカによる民主主義のお仕着せで、自治会や公民館運動は民主主義の学習の場、と言うような考えが与えられる。盛り上がった地域もあったようだが、結局これが身につかないまま、地域そのものの存在が、希薄に成り始めた。
一方地域社会の仕組みに変わって登場したものが、行政。隣のおばあちゃんの事も、お役所で世話をしてくれる。行政はそうした自分たちのやたらに増える役割に、自治会と言う組織を意識するようになる。そこで自治会もいつの間にか、行政の伝達機能が主な役割に変わる。老人会や婦人会の活動が消えて、行政直轄の活動に便乗して動くようになる。例えばこの自治会長というものが、どのような経過で選ばれて居るのか。民主的公平な選挙に基づくと言う、建前ではある。これこれしかじかといういい訳が用意される経過で選ばれている。忙しい時代状況の中、適当な成り手がない。しかし、自治会長としては後任を何とか探さなければならない。何とか引き受けてくれそうな人を見つけて、ひたすら日参し、お願いするほかない。適任の人を見つけて引き受けてもらう事自体が、自治会長の一番の仕事のような状態である。ここに、民主主義を形式的なものにしてかまわないと言う、暗黙のルールが出来上がっている。
一方、自治会長という役割は、地域の封建的な権威のある象徴でもあり、名誉ある職責でもある。市議会議員そして、市長。政治的志のあるものが、名乗り出る場でもある。舟原地区の自治会の上に、久野連合自治会がある。星野さんといわれる。尊敬できる方が現在されている。その連合自治会の更に上に、自治会総連合と言われるものがある。形式の3段重ね構造だから、実態など、何もある訳がない。舟原の自治会で何かを決めることがすでにできない。人が集まらない。委任状があるわけでない。その前に明確な総会がない。
今回、自治会総連合がホール建設について、要望書を出したと言う。どんな主旨のものであれ、明確な違法行為だ。政治的な発言や、意見の分かれるような問題では、意思表示をしないという、節度ある態度で、かろうじてて存在が成立してきたのだ。それが今の自治会の実態だ。その今までの配慮ある態度を踏みにじる暴挙だ。国会で審議なしで、アメリカに対して条約破棄を通告したような物だ。違法行為である、要望書を小田原市議会が取り上げたと言う事が、また情けない愚かな事だ。違法行為を根拠に答弁をするという市長の愚かさは、恥の上塗りのようなものだ。と書きながら、実は行政一体となって、この要望書を出させたのではないか。と大いに疑われる実態がある。小田原自治会総連合と言うものに対し、訴訟したらどうだろう。「自治会員の総意でもない要望を、総意のごとく市議会に提出した行為の撤回を求める訴訟。」提訴する事で、小田原に渦巻く、こうした裏取引で、事を進めようとする暗黒政治を、世に知らしめて行く、良い機会ではないだろうか。