上勝町の笠松町長
日曜日には徳島県の上勝町の笠松町長さんの講演会にも出かけた。大豆に火を入れての待ち時間で丁度良く行けた。上勝の葉っぱで町興しと言う事で、現代農業では早くに着目していた。「葉っぱビジネスが特殊解であって、長続きするものではない」と言う意見を聞いたことがあった。「農業では一般解を見つけなければ、意味がない。」という訳だが、どうも長続きしているところを見ると、日本の農業の一般解なのかも知れないと思い始めていた。2億5千万円の仕事らしい。月の売り上げが百万円を越えるお年寄りがいるというから、大きな産業と言う事になる。もう一つ有名なのが、ゴミ0宣言の町だ。ゴミの収集をやめた町。ゴミを34分別。2020年にゴミの出ない町にすることを宣言した町。これを推進した笠松町長の話が聞けるというので、楽しみだった。
なるほどという実感が、町長の勢いだ。前向きパワーが出ている。町工場から、世界的開発をしている社長と言う趣だ。一方に人間味があふれ出ていて、お年寄りに人気があるだろうな。と納得がいく。地域を、人を動かす、源に触れた気がした。老人介護の使い捨てのオムツ問題が質問で出た。この処理について、現場の作業員が答えるように、同時にゴミ問題の権威の学者のように正確な社会的な分析と、方向付けを答えられていた。徳島の民間業者が現在燃やしているのだそうだ。その灰はどこかの最終処分場に持ち込まれる。そうした現状。オムツの製造会社に責任を持たす法を作る以外、ゴミにしない方法はない。と明快な回答。国がやるべき仕事、町がやるべき仕事。そして肝心な住民がやるべき仕事。
ゴミ収集車が来なくなったら、ゴミがあふれる町。ごみ収集をやめて、ゴミが3分の1になった町。葉っぱビジネスも、ゴミの処理の方法も、全く同じ感性が貫かれている。暮らしの現実と実感に基づいているのだ。生活者の視点、よく言われるが、都会のマンション暮らしの生活では生まれない、土に密着して暮している者にしか出てこない、感性を感じた。ゴミの34分別は、自分でステーションに運ばない限りできない。家に34の分別ゴミ箱を置くわけには行かない。出かけて行って自分で表示を見ながら分けるのだ。その分ける箱の上には、分けたゴミが、この後どのようにリサイクル、リユースされるかが表示されている。ゴミを捨てながら、ゴミの分別が生産的な作業である事が実感できる。まさにゴミは宝の山の実感だ。
何故、他の町では出来ないのか。よく言われるのが規模の問題。大きいところでは出来ないよ。と言うのが、愚かな発想で、小さくすれば良い。舟原なら舟原でステーションをやれば良い。その結果が、きちっとした対価が地域に戻されるなら、やる地域はある。生ゴミは出さないそうだ。各自が処理する。全く当然の事だ。我が家では出さないが、出さない対価が評価されないところが残念だ。良い暮らしをしたら、それが評価される仕組みが行政の役目だ。ゴミのダンボール箱堆肥化をピースカフェでは取り上げた事がある。ベランダで可能だ。こうした努力が評価されるシステムこそ、ごみ減量の鍵だ。ゴミ処理広域化はダメだ。ゴミは小さくして見えれば、減ってゆく。