油
自給で困難な事はたくさんあるが、塩とか、油とかは、本当に困る。100円も買えば、相当あるわけで、これを自給する労力と言うものは、何十日分に値するだろう。だから、自給と言ってもあまり原則的なことにこだわると、すぐ不可能と言う事になる。衣服だって、布団だって、畳だって、自給しようと思えば、それらに殆どの労力を費やす作業になる。先日もある集会で、油はどうしたのですか。と言われた。こうした質問が出る人は、本気で自給を考える人だ。
ともかく、油ぐらいは何とかできないかと。人が必要とする量のほうから考えると、1人一升の油。これが1年間の必要量だ。これを菜種油で考えると、菜種が5キロ必要と言う事。去年田んぼの裏作で作った経験からすると、30坪の面積を栽培すると5キロの種が取れる。これは米が30坪で50キロと言う、一年の必要量と同じ事になる。やってみたのだが、驚くほど辻褄がうまく出来ている。
と言ってこれは食べる分で、暗くなったら寝ると言う事だ。夜も明るくしたいという思いは、常にあるのだからエジソンは偉い。明かり分は魚の油を使う。捕鯨だ。普通はいわしだろう。これもちょっと自給では難しいので、養豚。ラードは簡単に手にはいるが、これを燃やしたら臭いだろう。鶏の油と言うのも、これも楽に手に入る。
私の住む舟原では椿だ。椿が家の北西側に植えてあり、箱根降しを防いでいる。これが油の基になっていた。この木の大きさ様子からして、間違いなく江戸時代から、続くやり方だと思う。髪油、だったのだろうが。食用としても、10本ぐらいは各家にあったようなので、充分テンプラが食べれる量の油が取れただろう。私の家にも、3本あるので、これでどれくらい採れるか試してみるつもりだ。
菜の花プロジェクトが、あちこちで取り組まれている。景観作物と言う事で、行政主導で、南足柄でも小田原でも、取り組んでいる。美しい国づくりだ。問題は油を採るまでやらない事だ。しかも、田んぼの裏作でやるのでなく、休耕田の活用と言うことだ。こう言う活動のやり方が実は、形式主義の環境運動のイメージを増幅している。問題の表面をなぜているだけなのだ。環境運動と言うとボランティアが活動を行う。余り、現実的でないことをやるのだ。と言う評価になるのだろう。業として、菜の花を取り組めるようにならないと、まずいのだ。その方法があるのに、そこまでは取り組もうとしない。農業の本質を崩す事になる。農業が地域に必要なのは、環境調整力だけではない。食料の自給だけでもない。農業に人間本来の生き方があるからだ。
菜種油は、換金作物だった。庶民には贅沢な物のはずだが、人間ゆるい方に傾けば戻れない。魚油から、菜種油、それがろうそくと、明るい方へ明るい方へ傾いて、ガス灯から電気。暗くなったらに寝るのが一番。実は今私が使っているのはグレープシードオイルこれは、ワインのおこぼれから造るところが気に入った。使ってみて癖のない、いい油だと思う。油はなにからでも取れるほど多様だ。木で取れる油と、草でとれる油、魚から、獣から。使い分ければいいのだろうが、体質に合うのは、潅木の種から採る油のようだ。コーンとか、菜種は好みではない。ごま油もだ。魚や獣はやはり身体にダメ。オリーブとか、ブドウとか。木の種と言うのは、薬のような物に感じる。きっと椿もいいだろう。