私生活を見つめる作品は是か非か
「美術9条の会」と言うものがある。出来た時から参加はしている。そこでは美術展なども毎年開催しているのだが、参加したことはない。その美術展での感想に、もう少し反戦的作品があるかと思ったのだが、がっかりした。こういう感想があるそうだ。反戦的作品と言えば、ピカソの「ゲルニカ」とザッキンの「心臓の張り裂けた男」破壊の為の記念碑を思い出す。
爆撃で逃げ惑う人、破壊された人体が、直接的に制作されている。芸術としての完成度の高さと、作品としての主張の明確さがある。それでは、愛光の梢のある自画像はどうだろう。普通に自分を見つめている。日本の絵画史の中でも傑出した作品だと思う。これが反戦的絵画であるかどうか。上田に『無言館』と言う美術館ある。これから戦地に赴く画学生が、生きた証として描き残して去った絵画だ。そうした予備知識を含めて、訪れた人達に深い感動を与えている。
ザッキンの作品が、ロッテルダム空襲で直爆撃された人体。と言う見方と、予備知識なしに、人体の構成と言う事も、ない訳ではない。人体の構成であるとしても、すごい作品なのだ。これは直接ロッテルダム港の殺風景な一角で、その巨大な像を見ると、圧倒的な存在感でその意味が伝わってくる。人間存在が、物として破壊されていく、不条理への怒りだ。これは、愛光の自画像にも実は共通な物としてある。愛光という一個の尊い人間存在が、武器と言う物として扱われる、不合理に対する静かなしかし、絶対的な抗議が聞こえてくる。
では希望というものはどうだろう。何か自分に対する圧力に対して、反発としての作品が、未来に対する希望と言う形で表現された、反戦的作品と言うのもある。マチスが、娘さんがレジスタンスの嫌疑で、ゲシュタボに逮捕される。その不安の中でもマチスは希望に満ちた、実に明るい絵画を描く。友ピカソから、教会の装飾など描いて、マチスは転向した。と言われたそうだ。この希望に満ちたヴァンスの礼拝堂の平和の祈りを、平和へのメッセージとして受け取る。これこそ反戦の作品だと思う。平和に生きる事の意味を、絵画空間のメッセージとして、そこに立つ人に明確に伝えている。
それぞれの暮らし方があり、その生き様を通してのみ、作品は成立するのだと思う。個々の生き様が唯一、作品に表れる。被害者としての一面を、安易に主張する作品はままある。しかし、何の感銘も受けることがない。むしろその浅薄さに腹立たしくなる事の方が多いい。それは、生活のない、観念的な反戦思想の浅さからくるのだと思う。プロパガンダとしての絵画は芸術でなくデザインポスターだった。あまりに内容がなかく、反戦の観念の説明でのみ存在した。自らが平和に生きる事に挑戦していない人間が、いくら観念的に、反戦思想を描いたところで、作品にならないのは当たり前の事だ。大根を一本描いたとしても、そこに自らの生き様を描くのが、絵画だと思う。