団塊サミットin丹沢

   

昨日は「団塊サミット」が秦野であった。「緑と農の元気作り」と言う分科会にパネリストと言う立場で出た。消化不良のまま終わった。事前の打ち合わせが無いまま、分科会と言う事だったので、大雑把な事に成ってしまった。各自が各々の活動を語れと言われたわけだが、団塊世代とどうかかわるかと言う肝心な点が、抜け落ちていた。どの団体にとっても大切な課題ではあるが、その事を考えてきていないのだから、分科会の話に方向が見出せないままだった。

その中で印象に残ったのが、残間理江子氏松田輝雄氏の話だった。お二人ともマスコミで活動されている方なので、顔を見れば殆どの方がご存知の方だ。と言っても内容は相当に違っていた。いや、むしろ逆だった。残間氏は分析力がすばらしい。しかし、方向は見せない。分析をどんどん展開して、後はあんたらがやることだ。こんな感じか。松田氏は一人ひとりの心にどう入り込むか。内側に直接響く話だった。この方は深い。お二人ともマスメディアを通して、お見掛けしたときとは、全くの別人だった。何故、あれほど濃い人たちが、当たり障りの無い人を演じられるのか。テレビの世界は不思議だ。

農の会では団塊の世代を特別に考える事も無いし、年寄りが農業をやるのは、無理だと話した。60になって定年になるのは、良く出来た話で、足手まといになるから、会社のように利益と効率を考えているところでは、失格と言う事だ。それを、農業分野なら、いい加減な世界だから、充分やれるだろうと言うのは、甘い。これは教職にいて、絵を描いていた人が、定年になって時間が出来た。さあーこれからやるぞ、などと力む。ますますろくな絵を描かなくなる。よくあることだ。

全ての事は、時間の余裕などと関係がない。その人間だ。忙しくて出来ない。すばらしい口実だ。結構な事だ。農業は20歳までの育ち方で決まる。そういう身体になっていなければ、辛いだけだ。外に一日いるだけで、身体のできていない人は疲れてしまう。家庭菜園と農業は似て非なるもの、どちらが上と言うものでもない。家庭菜園の延長に農業があると言うのが、幻想。農業をやりたいなら、一日も早くやる。会社に行ってる場合じゃない。

NPO法人の人集めに、団塊の世代の定年が期待できる。こういう目論見が背景にあるのだろう。人集めはしてはいけない。やりたい人がやればいい。これは活動の原則だ。集めなければ出来ないような活動は、間違いなく魅力無い、おかしな活動だ。ねずみ講みたいなものか。

ミカン減反をした跡地に、杉檜が植えられている。これを畑に戻す。こういう話をしたら、会場からそのまま置くべきだと言う意見があった。「せっかく自然が増えたのに畑に戻すとは何事か。食料はもっと田舎で作れ。」すごい意見だった。熱帯雨林を消滅させても、自分の家の周りには自然が欲しい。こういう人は自然と言うものを本当には感じていない。人家に近い杉檜の荒れた植林が、美しい景観だろうか。鬱陶しい景色だとしか思えない。絵を描くとその黒々とした林が、集落を寂しく見せ、暗い物にしている。間に残った畑も、あの日陰には、心底迷惑している。

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