あしがら農の会収穫祭 

   

語れない事、言葉に出来ない事。こんな事は案外多い。今日は文章で表せない事を書き留めてみたいと思っている。昨夜眠れないまま、頭の中ではこのことがぐるぐる廻っていて、溶岩流のようで、形が見えそうで見えない、具合だった。

言葉では語れないという事がある。絵なら、表現できたような気になるものもある。文章では書けると言う事もあるようだ。「共感」と言う事の周辺の事で、このところ、めぐりめぐっている思考がある。共感と書くとすぐそれじゃあー無い。というような気がするので、周辺とつけた。結局は人間が生きる、根底にあるものは何か。と言うような事につながること。

それは昨日あった農の会の収穫祭の事でもある。夏祭りにはあった空気が、今回なくなったと感じた、あの空気の事だ。こんな風に書いても、大多数の人には何のことやら、不思議に思うだけだろう。自己確認だからそれはいい。なにしろ、私にも良く分からないのだ。色んな方向から言って見れば、すこし意味が伝わるか。「許される心地」のよさ。自由になれるというのも少し違って、おかしなままで受け入れられる、ゆるゆるの感じかな。おかしいと言ってしまっても違う。違う。変わっていても、の方が意味的にはしっくり来るが、やはり、おかしいと言いたい。

山北の山に13年暮し、小田原久野の舟原に越してきた時の、全く予想外の、あの居心地の良さである。死ぬまで、ついにここで暮せると思った。誤解を恐れず、書けば、ダメでもいいじゃん。変でもみんな変なんだからそのままで大丈夫だよ。こんな感じかな。更に誤解されそうに書けば、務所帰りもOK、コソ泥だって、やってないときは隣人。

カラオケを、聞かされているのに、聞こえないような「こころ」でに一緒にお茶を飲める。そりゃー辛いかも知れない。でも、聞こえないのだから、ニコニコ受け入れる事ができる。公民館の末席に座って、すごいタバコのもやに包まれて、とてつもない議論が行われていて、意見を求められたりしても、その場で一番いいようなことが、当たり障りなく言えるような、収まりのよさ。すこし違うけど、この辺に似てはいる。間違っても、いい加減でいいというんじゃない。

空気を作り出すために一番大切なことは、どうも正しいと言う事じゃない。それ辺りは難しい境界領域だけど、確かな事だ。心を通じ合う為に、そうだ。心を通じ合う事が大切。これは方法じゃなくて、目的。たぶん、そうかなと思うのは愛情と言うこと。人間愛と言うと、ちょっと違った受け留が起こりそうで。親がどうしようもない子供を、可愛いと思うような気持ちに近いのかな。話の方向を間違っちゃいそうだけど、、これが上からとか、誰かがというのじゃなくて、互いにと言う、全体性としての愛情。間違っているとか、自分と違うと言わないでも、自分のあり方を楽々示せる大きさ、全体性の持つ受け止める包容力の大きさ。肯定力の大きさ。人それぞれと突き放さない愛情力。

等など、書いても、書き留められているとは一向に思えない。考えていた通り、書けば書くほど離れてゆく、文章力が無いからか、言葉と言うものの限界か。はたまたことの本質を理解できていないからか。残念だが、限界。ピースカフェが捜し求めている、平和と言うものも、一体何処を探せばいいのか、中々難しい。全ては移ろいやすく、止まることが無い。昨日見ていたと思う世界も、今日は確かではない。陽炎のようにあったのかどうかさえも、確認が出来ない。

 - あしがら農の会