竹林の作業
2回目の苅野の孟宗竹の竹林の整備を行った。前回に引き続き、9人で行ったが、まだやっと手をつけたという程度だ。全体で、3反位の広さの竹林。孟宗竹の管理がどれだけ大変かがよく分かった。何かいい方法は無いものだろうか。
作業の手順は前回の経験から、大分変わった。上に上げて処理すると言うのは、止めた。燃やすのも止めた。少し低くなったところがあったので、そこにできる限りを置いていった。最初は、確かに切り難かった。倒しす方向も間々なら無らず、曳きずり出すのも、3人がかりと言う状態だった。それでも段々空間が出来てくると、かなり作業がしやすくなり、一気に進んだ。
当然の事だが、竹は根本の方を持って引きずらないと、枝が引っかかっていけない。所が、いい方向に倒すと言う事が、簡単では無い。こんなことが、いちいちに真竹とは違う。18日にある、赤田の真竹の作業は、そんなことで苦労は無いはずだ。切り倒すのも、のこぎりでかまわない。2人一組で、あちこちで切っては、曳き出して問題が無い。孟宗竹はのこぎりでは時間が掛かりすぎる。チェーンソウが必需品。こんなことでも、やってみないとわからない。
孟宗竹と、真竹の見分け方は見た目には中々難しい。ところが、地元の人で一目でそれが分からないような人は居ない。田んぼの稗と、稲の違いではないが、子供の頃に体で覚えた者で無いと、理屈で判別法を作らないとならない。それが、竹の節のところの違いだ。箱根湿生花園の学芸員の高橋さんに教わった。所が、昨日もこれを逆にみんなに伝えていて、更にこんがらがってしまった。付け焼刃は恥ずかしい。真竹は節のところの線が、二重。孟宗竹は1本。
孟宗竹の由来、来歴が又面白い。孟宗竹は清国→琉球→九州と伝播し、江戸に持ち込んだのは寛永元年(1624)のこと、廻船問屋山路治郎兵衛勝孝がもたらした。薩摩藩の江戸屋敷にあったもが流出した。と書いたものもあった。承応3年(1654年)宇治黄檗山万福寺に明国の僧隠元が孟宗竹の母竹を携えて 来日し、これが西山の麓一帯に定着して、たけのこが食されるようになったとも。21代島津吉貴は、仙巌園に琉球国から得た江南竹(孟宗竹)を植えた。と書いてもある。元文元年(1736年)に琉球を通じて2株が鹿児島の島津家二十一代吉貫公に贈られたのが栽培の始めとされています。などなど。
名前の由来としては、古来中国の孟宗君の話し、我儘者の病気の母親が、雪の中竹の子の煮つけが食べたいよぅ。とノタマウノデ、探した所、雪中竹の子があり、食べさせたと言う孝行話から、孟宗竹と命名。
教訓:もっともらしい話ほど信じてはならない。と言う事かな。
一度綺麗にしてしまえば、その後の管理はそれほど困難では無いと思うが、荒らしてしまったものを、きれいにしようと言うのは、やはり大変なことだ。常日頃のちょっとした手入れの積み重ねが、竹林の管理では大切なようだ。私としては中途半端に終わるより、何とかけりがつくまでやってしまいたい気持ちだ。しかし、畑で忙しい、みんなにこれ以上参加してもらうことは、申し訳なくて出来ない。
と言ってわが身を振り返ってみれば、我が家の竹林も何とかしないと。