食農教育

   

先日、杉山さんからの紹介で、尋ねて下さった方から、メールを頂いた。その中に学校を作る、と言うすばらしい趣意書のような物が、入っていた。以前青さんから紹介いただいた方も、小学校をやりたいと言うお話で見えたことがあった。そうした次世代に対して、純粋な思いをお持ちの方が、おられると言う事がすばらしい。

②「食農教育」の実践                          
農業体験を通して、食べる事の重要性や農業の役割を学ばせる。       
季節の農作物作りをする事を通して、「人は自然の中で生かされており、時として頭の中で考えた通りには事は行かない」「人は他の命を頂いて生きている」と言った「自然の恵みと厳しさ」、「自然環境や命の大切さ」を実感体得させ、12年間の一貫教育の間に、高学年生には「住」としての小屋作り、農作物の「自給自足」の実体験をさせる。

以上が、今学校を作られようとされている人から頂いた。食農教育に関する考え方を書いた部分である。教育の基本に、自給の精神入れようと言う事は、すばらしい事だ。自然のありようを体得することは、本来人が学ばなければ成らない基本だと、私も思う。今の教育にはこの部分が、ない。

教育を考える時に、教える側が集まり、生徒を募集する方式と、教わりたい側が集まり、教師を招くやり方がある。食農教育においては、後者が当然望ましい。
学校教育の矛盾は、ここに尽きる。教えたい側が集まり、教わりたくもない者を教えなければ成らない。これでは教育的効果が、当然乏しい物となってしまう。教えたい側には、人間としてあるべき姿が、成立していて、それを次世代に伝えたいと言う希望から、教育という形を作ろうとする。
学びたいと言う、人間本来の自発的思いと、何処で合致できるかだ。

果たして、食農教育が、学校教育の中で成立する物だろうか。教育を学校と言う狭い枠の中で考えることが、果たしてよい事だろうか。本当に伝えたい事、あるいは聞きたい事、は学校という中だけではすまないことなのでは無いだろうか。生涯教育という言葉を行政は使うが、自学自習と言うのが私は好きだ。

一つには教師の資質の問題があろう。自給自足を、きちっとした理念の中で、実践できている人、やってきた人でなければ、これを伝える事は出来ないであろう。そうした人は私の思い当たるところでは、唯一、筧次郎氏ぐらいであろう。暮らしの基本としての家を、自作し暮らしている人でなければ、ここでの小屋作りは伝えられないだろう。思い当たる人は少ない。

一般的に言えば、教師達に資質の低下は恐ろしい勢いで加速している。以前も、それほどすばらしかったわけでもないが、現在の教師希望者のタイプは、こうした食農教育に相応しいようにはとても思えない。自らの足で、自給自足で生きる気概がある人間が、学校に勤務しようとするだろうか。Nさんのような特殊例はあるが、本当にその価値を、学校と言う組織が理解できるかが、今度は心配だ。

以上は私自身が、学校に勤務した7年間の中で、学んだ事だ。学校と言う既成の組織が良くないのだと思う。そしてどういう人が、どういう思いで、教員になろうとするのだろうか。今、教員に成ろうとする人の中に、自給自足の精神や、暮らしを正面から見つめて、暮らしていこうとしている人は、どれだけいるだろうか。
また、わずかにいたとして、学校と言う組織の中で、そうした思いの実現が、許されているのだろうか。

どれだけの教師を集めれことが出来るかで、学校教育が可能なのかは決まるのだろう。

 - 身辺雑記