悪い景観100景
美しい景観を創る会が悪い景観100景を作った。これを、3年ほど前に、足柄地域でやろうと言う話があった。
足柄地域のこれからの方向を考えている中で、あっていいものと、あってはいけない物を、話し合っていた。「小田原の市民会館はよそに比べて、古くなっているけど、古いものをすぐ建替えないで、何とか使っていると言う事で、貴重な存在じゃない」とか、「ウイロウヤさんの、例のお城風の建物、あれは、要らないんじゃない」「なんかあの建物評価されて、賞をもらっているそうだよ」「最悪は西湘バイパス」「ソリャー、私も一票」大変盛り上がった。
景観権とか言われる事もあるが、風景をいつも描いている者としては、日本の風景を台無しにしてきた、高圧線と言うのには、実に腹が立っている。折角の場所に来ると、巨大な高圧線が、展望をさえぎり、不愉快な気持ちになることは、ままある。でも高圧線が好きだって言う人だっているのだろうから、景観と言うものは、主観的なものと言う面もある。
昔、桂林で、漓江(りこう)という河を描いていたとき、ホテルのいい位置に陣取って、七星岩と言う山を1週間ほど描いた。この場所は日本兵が住民の虐殺をした場所だ。水墨でやってみた。惹かれる場所で、飽きずに、描いていた。所がどうも、河の手前に、都合の悪い家があって、川がもう少し広いと、いいのにと思って、描いていた、朝窓を開けると、実に描こうとしていた様に、風景の方が変わっている。慌てて描いていたら、なんと、いらないと思っていた、家が流れてゆく。洪水だったのだ。家を取り除いて描いた。勝手な物だ。
眺めなど、大したことじゃない。大切なのは便利な暮らしだ。経済合理性のある社会だ。こう思う人も多いいだろう。電気の無い暮らしより、高圧線を眺めて暮らす。高圧線に慣れて、又いいもんだ、と思うようになれば良い。過去にこだわって、居るなんて、おかしいんじゃない。環境派のいうことは、経済的な観点が欠落しているんだ。こんな意見もあると思う。
私の宇都宮に住む、トンチンカンの叔母が、たまたま、箱根に来た帰りに、小田原に寄ったのだ、そうだ。何で家に寄ってくれればいいのに、と言ったら。小田原城には寄ったという。それがすばらしかったので、時間がなくなったと言うのだ。
あのお城が出来たのは私が子供の頃で、東海道線で、小田原を通る時は、必死で、窓から見たものだ。最近銅門というのを再建したので見たか。等、話していたら、城内の売店がすばらしい。並んで、薬を買った。と言うのだ。ういろう城に行ったのだ。
景観は実に主観的だ。好き嫌いの問題だ。
本当にそう言えるのだろうか。
東京都美術館が出来た時に、なんと情けない物ができたと思った。使い勝手も悪く。絵を飾る環境とは到底いえないもので、あんな物じゃ、貸し画廊なら誰も借り手は居ないだろう。
日本の建築のレベルと言うのは、こんな程度なんだなぁー、と感じた。もう、建て壊しをするらしい。なんで、40年持たない、美術館を建ててしまうんだろう。今六本木に建てている、国立美術館は大丈夫なんだろうか。せめて、200年ぐらいは使えるものじゃなければ、美術館の価値が無い。
江戸時代の日本の都市の美しさは、格別だったらしい。農村も、自然も、すばらしかったのだと思う。多分私の中にある、美しさの原型はそこにある。外に広がる事の無い社会。閉じた社会の中で、同じ価値観で、生きている社会。景観の統一も生まれたのだと思う。
隣が、ロココ風のホテルを建てたから、私は、コロニアル風の、住宅を建てよう。こうやって、個別にやって来たのだ。その結果が、今の足柄の景観だ。自分の家もでたらめなのだから、行政が、海岸を滅茶苦茶のする、とんでもない道路を作ってしまっても、仕方が無いのだろう。