小田原藩主大久保公墓所
小田原藩主大久保家の菩提寺は、小田原にある、大久寺である。日蓮宗の寺院だ。何故、東京の世田谷の天台宗の教学院に、現在の墓所があるか不思議な事だ。
加藤憲一さんのブログに、大久保忠真のお墓のことが書かれていた。彼のように、大久保公を敬う想いがある訳ではないし、信仰心は全くないのですが。たまたま、教学院の住職の林さんとは知人なので、何かできることがあればと思い、ついでもあったので伺った。
教学院は目青不動が祭られていて、江戸6不動の1つだ。と言っても現在の太子堂に来たのは明治43年。しかも、明治の廃仏毀釈で3つの寺が、合同され、今の教学院になった。元は新宿の方にあったとか。
墓の文字を良く見ると、南無妙法蓮華経と刻まれている。教学院には、この墓石が移されてきたことがわかる。近くの豪徳寺に井伊家の墓所があるが、こちらはよく管理されている。大名の墓というのは、私達庶民とは違い、その大名の作った寺院という場合が多いい。教学院の出来た経緯は良く知らないが、江戸屋敷がとなりだった縁で、教学院が大久保家の墓所と成ったらしい。だから、この寺に庶民の檀家が出来たのは最近の事である。
現在、烏山大久保家、厚木大久保家、小田原大久保家と3つの大久保家の墓があったことがわかる。烏山大久保家は二宮金次郎が派遣され、活躍した所だろう。その辺の経緯が、3メートルほどある、石碑に刻まれている。墓所も、整理され、5つほどの墓が普通にある。
厚木大久保家はキリスト教に改宗したとかで、戦後一度も墓参された事がない。との事。西側の、100坪ほどを占めていて、中央に、なんとキリスト教の墓がある。ここが一番に荒れている。
小田原大久保家の墓が、一番広くて、300坪ぐらいあるだろうか。私にはそれほど荒れているとは見えなかった。目黒の自然教育園を思い出した。温帯照葉樹林の安定状態というのか、樹に覆われてしまい。草生すという感じではない。現在の御当主は平塚に居られ、ブリジストンに勤務されていると住職は言われていた。その最近立てた墓石も一つある。300坪もある墓を相続してしまった、当惑が感じられる。木の根が盛り上がって、墓石を倒してしまうのだろう。いくつかは倒れていた。墓石は30ほどある。
この寺に他に檀家がないということは、収入がないということである。この広い寺院を維持してゆく、ことも大変な事であろう。烏山大久保家の整理で余裕の出来た土地に、新しい檀家の墓を増やしてきて、維持されているようだ。200軒檀家がないと維持できないというらしいので、大変は大変だろう。以前無かった葬儀施設を併設したようなので、そうした利用で、運営されているのかもしれない。
小田原大久保家も、烏山大久保家のように、一部に統合整理してしまうのが良いのかもしれない。1人づつの墓があり、土葬という事で、どんどん墓が増えてしまったのだろう。しかし、今更30ほどある、巨大な墓石を片付けるだけで、大変な事になる。私のように将来入る墓もない人間にとっては、墓が無くて有難い事だと改めて思った、ところだ。
毎年5月の連休には平塚から墓参に見えるので、住職が少しは掃除をするそうである。小田原からも、城と緑を守る会とか言うグループが訪れて、掃除をしてゆくそうである。これには驚いたが、やる人達は黙ってやっているんだと、何とも不思議なことで、私には思いも拠らない。
夏みかんの大きな木が実をつけて美しかった。これも実生だそうだ。棕櫚が下草のように出てきていて、どうも墓には似合わない。鳥が実を食べて、運んでくるのだろうか。大きな木には保険がかけてある。枝が落ちてきて、人を怪我させた時の対応策だ。
こんな事も都会の中の寺院の墓所管理なのかも知れない。墓の土地の権利関係というのは、ちょっと微妙なはずで、寺院の占有でもないし、檀家の物でもない。寺は勝手な事はできない約束のはずだ。寺院側の努力と、現在の当主の可能な範囲との、微妙な結果が現在の状況なのだろう。
私の親の入っている寺では、同じオオクボでも大久保利通の墓所があり、これまた1反はある。やはり、管理で混乱があったようだ。消えてゆく物は消えてゆく美しさもあるのではないだろうか。
あるいは墓所を史跡として考えるならば、再度小田原に移設するという事になるのだろうか。この場合、何故教学院に改めて、墓所を作ったのか。このことも重要になりそうだ。