何を描くのか2
どんな場所を描くのか、に続いて、どんな状態に惹かれるかを考えてみる。
稲作をやる場合、取れたお米より、販売より、そのお金より、栽培法に興味が行く。栽培法だけに興味があるといっていいぐらいである。栽培に様々な想定をして、試してみる。その結果起こることが一番面白い。このことはどんな事にも当てはまって、絵を描く場合、おもしろいのは描いてゆくことであってできた絵ではない。その点鶏を飼うという事は、全てがその経過のような物で、実におもしろい。
釣り人が魚をリリースする心境に近いのかもしれない。家を作っても作る過程がおもしろいので、出来てしまうと興味が半減してしまう。
先日庭師の方に庭というのは出来上がった形を楽しむものだ。というのを聞いてびっくりしてしまった。私は成長してゆく庭が好きだ。あの木は来年はもう少しあの枝を伸ばすぞ。あそこにあの花を植えるとあっちに広がってゆくんじゃないか。など植物の生育を見てゆくことが楽しい。一本の木を何十年も同じ状態に保つ事など、何の面白みも感じない。樹木の様相が、幼木から段々に生育し、その樹木らしくなってゆく事が面白い。
実相を見ようとする私の個別性に由来する。動いている状態に深く表れるように、感じる傾向は、私の移行状態にばかり興味を感じる傾きに根ざす。深いと感じる原因は私の内部にあるのだが、物の実相と呼ぶ物は、稲とは何か、田んぼとは何か、と考えた時に、私が切り込んでゆく形はその栽培の全体にあるのではないかと思う。それゆえに稲を描くというとき、当然にその栽培全体を含みこんだ物として、その今の情景を見ることになる。随分ややこしいが大切な私の何を描くのかの根幹である。
「崖の眺め」に惹かれるのは海と陸とのせめぎ合いということですが。そのせめぎ合っているのは、海から陸への変遷であったり、陸が海に呑み込まれて行く姿であったりする。変わろうとしてゆく場面に、深いところが露出するような気がする。花田清輝はそれを時代の変遷中世から近世に、近世から、近代に移行してゆく時代層の中に、次の時代を構築してゆくヒントを見ようとしていたと思う。
「河口」「耕作放棄地」も殆ど同様な視点で考えている。何かを新しく作り出すということ、制作というのはそういうことだと思うのですが。過去あったものから、否定的媒介として、こういえば簡単だが、否定的媒介なるものの実相の表出こそ、私の制作という事になる。そこに私の経過にのみ興味が行くという、感覚があるもので、こうしたものを描くことになるのだと思われる。
私は描いているときは何も考えてはいない。ただただ反応している状態になっている。しかし、描く前には、殆ど全てを完成している。何をどのように描いてゆくか、見えてきてから描く。見えてきたことは文章に出来るように、明確で、当然何をこれから各課はなす事もできる。見えてきたら、そのまま始める。当然下書きだとか、構図を取るとかいうようなことはしない。たぶんそうした私の製作法には、水墨とか、水彩とか、千変万化する素材が向いているのだろう。