石破氏止めない醜悪
2025/07/25
驚いたことに、敗北した自民党の石破総理大臣が選挙の敗北の責任をとろうとしない。選挙で国民の判断は下されたのだ。石破氏には政権を任せておけないという国民の半田舌選挙結果を、どう考えているのだろうか。何が比較第一党だ。ごまかせる話ではない。しかし辞めないで頑張って欲しい。一日でも長く頑張れば自民党が終わりになる。
石破氏はここで止めたならば総理大臣の責任を果たせないと主張。自民党からは石破氏が辞めなければ、自民党が持たないと辞任論が噴出。確かに石破氏が一日でも長く総理大臣にいれば、自民党が分解するだろう。石破氏はそこまでやらなければ気が済まない人なのかもしれない。本当の自民党をぶっこわせる人なのかもしれない。
日本人の排他主義は別段新しいものではない。日本人の差別主義は関東大震災においては、朝鮮人を大量虐殺をするほどのものだったのだ。日本人ファーストどころか、天孫民族を自称していた。強い差別意識を持ちながらも、外国人と深く関わらない出来たのが、日本の戦後社会であった。
日本という外国人アレルギー社会が、労働者不足で無理矢理外国人を導入したのだ。エコノミックアニマル丸出しにだ。しかも社会制度の調整もないままに行った。これで社会的混乱が起きないはずがない。自民党政権が大企業を忖度した結果起きたことだ。いよいよ日本人の醜さが表面化した。
アベ氏のことは自民党政権にかかわらず、比較的評価していた。このブログにもそのことは何度か書いた。野党の質問に向き合っていたからだ。国会議事堂の名の通り、議事が行われていた。考えが違うのは当然のことで、議論し妥協をして、結論を出すというのが民主主義だ。
政治は妥協である。石破氏は妥協が出来る人だと思えた。ところが、責任の取れない人だった。これだけ明白に国政選挙の結果が出た以上、総理大臣には、その結果に従って貰わなければ、民主主義が育たない。子供達にもひどく見苦しい姿をさらしている。いい加減にして欲しい。
日本の空気がさらに悪くなる。権力にしがみついて放さない、哀れで、見苦しい姿だが、石破氏の本音の姿にも見える。政治に空白を作っては行けない。支持されていない内閣で、国を運営するという空白にした責任は石破氏にあるだろう。ここは、辞任以外に何一つ道はない。これほどしつこい政治家はさすがに少ない。
何でも理由を挙げようとして、辞めない理由は総理大臣としての責任があるからだというのだ。トランプさんとの関税交渉、あるいは防災、人口減少、物価高を上回る賃金上昇、多くの課題を抱えている。だからこれをほっぽって止められないというのだ。あまりに馬鹿げているだろう。
どう考えても100年かけても、政治の課題の解決はない。人口など絶対に増えない。大災害の対策など、200年かけても変わらない。終わりがないのが政治だ。少しづつ妥協して行くのが政治だ。一気に解決しようとすれば、だいたい悪いことになる。ほどほどを目指すほか無い。
「日米が合意したが、対米輸出品目は4000を超え、それぞれの取り扱っている会社や事業者にとっては極めて重大な問題だ。合意が確実に実行されるよう、きちんとこたえていくことは非常に大事だ。あす赤澤経済再生担当大臣が帰国したら報告を受けることにしており、国民生活がきちんと守られるよう全力を尽くしたい」と述べました。
トランプ関税が15%で決着した。依然書いたような妥協線に落ち着いたわけで、なんだか安堵感が広がりつつあるが、15%経費が増えて、販売できるものはどのくらいあるのだろうか。株価がこれで急騰である。何故こういうことになるのか全く判らない。最悪ではないだけだろう。
結局日本経済の問題は続いて行く。その対策が終わるまで止めるわけにはいかないとなるのだろう。しつこい気持ちは分からないではないが、結局石破さんでは出来ないと国民が判断したことは重い。石破さんに引き続きお願いしたいとした人は、5人に一人しか居なかったのだ。
もし日本が民主主義を目指すのであれば、どうすべきかは目に見えている。石破さんが止めて、何も解決できない自民党の総裁が現われるわけだ。そして、野党の方もまとまることなく、消費税消費税と騒ぎ続ける結果、消費税がいくらか下がることになるのだろう。
様々な野党の要求が上がってくる。その都度政府は妥協せざる得ないだろう。こうして、財政再建は遠のいて行く。この間に、様々な政治家の、野党でも与党でもスキャンダルが現われてくる気がする。最後には解散総選挙にならざる得ないのだろう。どこの政党がより悪いかが問われる選挙。
日本の方角はどこなのか。参政党の日本人ファーストの意味はまだよく分からない。人まねに過ぎないような気がする。日本とは何か。日本人とは何か。日本はどこに向かうべきなのか。この議論を政治はしていない。ここは日本なのだから、日本人を問い直すべきなのだ。
極右出現と言っても、選挙でヒットラーは選ばれたとしても、日本人は別段選ばれた人間と言うことではない。日本人ファーストと日本人選民思想とは別物だ。日本列島にたどり着き、細長く続く日本列島に数万年暮らしてきた人と言うことだ。どちらかと言えば、孤立して暮らしてきた民族である。
この日本人とはなんたるかを根本から、政治は問い直して貰いたい。そこを明確にした無いと、明治政府の二の舞になりかねない。日本語を捨てて英語にするべきと文部大臣が提案するような国になる。外国人労働者と人口問題を企業論理ではなく、国民目線で考える必要がある。
日本が外国人労働者に来て貰いたいとしても、安い給与では来てくれない時代が迫っている。有能な中国人が、東大に来てくれているらしい。富裕層の中国人が日本で暮らしているらしい。一次産業だけではなく、知能労働の分野でも、外国人に頼らなくては仕事にならない時代はそう遠くはない。まだ日本には外国人をどう受け入れて良いのかが、見えていない。
見えないまま、企業の利益のために、外国人の流入はさらに増えて行くことは間違いが無い。その新しい日本の状況は、このままでは日本人は受け止めきれない気がする。だからといって排斥し、対立することは互いの不幸につながる。日本の社会は耐えがたいものになるだろう。
大家さんは中国人という時代が来るのだ。大家と言えば親も同然という江戸時代の良き日本社会が、大家さんは赤の他人と管理会社という社会に移行できるのかである。まあまあではなく、契約に従ってくださいという社会である。そんな社会は少しも嬉しくはない。
嬉しくはないが、世間が世知辛くなって行くと言うことだ。農の会でも、のぼたん農園でも規約はない。規約で枠を決めることは組織をつまらないものにするからだ。江戸の長屋のような寄り添える組織にしたいと言う思いである。しかし、こう言う曖昧な集まりが維持出来なくなるのかもしれない。
すべてを明確な契約で取り決めるような組織は、可能性の芽を摘むことになる。もちろん日本社会自体が、すでに変貌し決めないでもわかり合えるような社会ではなくなり始めているのは確かだ。人を責めることで自分の存在を確認するような社会に変わり始めている。
問題点を指摘することで、自分を主張しようとする人たちの社会。それが右では参政党であり、左では令和新撰組なのだろう。責めることで共感を得ようとする政党の登場ではないか。保守党と参政党の違いであり、共産党と令和新撰組の違いのような気がする。