分かりやすいでは、分からない。

   

 わかりやすく解説するので評判な人が、池上彰さんである。平成令和のテレビ時代を表す人である。この人の説明で教えられたことがたくさんある。NHKの子供ニュースのような番組を見ていた気がする。しかし、世の中で起きている事象は分かりやすいことばかりではない。

 なぜこんなことになるのかという、不可思議なことが次々に現れる。最近ではお米の値段が倍になったことと、トランプ関税があげられるだろう。最近テレビを見ないので、池上解説は聞いたことはないが、間違いなくわかりやすく説明してくれているのだろうと思う。

 コメの倍価格の話はネットでもずいぶん読んだし、ユーチューブでもずいぶん見た。キャノングローバル研究所の山下 一仁さんの発言は目立つし、影響も大きいような気がする。元凶は農協にあり。という、昔から主張している考え方で、すべてを分析している。一定の説得力はあるが、ゆがんではいる。

 トランプ関税の方は高橋洋一さんという方が分かりやすく解説しているのが気になる。プラグマティズム的一刀両断解説が、聞いている間はわかった気にさせてくれる。断定的な解説がその他の要素を忘れさせてくれるという、話芸のような気がする。

話芸と言えば、古館さんである。自分の主張を話芸に仕立てている。昨日見たものは、「暫定課税のガソリン税」のお題目であった。「暫定で50年は政府の怠慢だ。」全くその通りである。「ガソリンにまつわる企業との癒着はどうなっているんだ。」ボヤキ解説である。

 人の解説者はそれぞれに素晴らしい頭脳なのだろうと、思われる。NHKの人と、元官僚のお二人と、元アナウンサーである。でもどうだろう。これでいいのか。ボヤキ漫才を聞いて、うっぷんを晴らす庶民のような気分にさせられる。そりゃあーそうだけど、じゃーどうする。ここを聞いた人が、自分事として考えるかどうかである。

 結局すべては解説などできないほど、入り組んでいて、不可思議部分が切り捨てられているのではないか。言葉では言い尽くせない、むしろ大切な部分がその後ろ側にあるのではないか。問題はここなのだ。そのことも言葉にはするのだが、言葉にはできないことを言葉にで表せるものなのか。

 イネづくりをやっていて、わかるということの難しさを痛感する。わからない10%ぐらいがむしろ大切なことになる。それを知りたいから何度でも実践を繰り返す。そしていくらかのことが分かることがある。その喜びは大きい。しかし、その先にはまたわからない世界が現れる。

 目標が一つであれば、100%分かるのかもしれない。しかし、美しい田んぼでなければ嫌だという人もいれば、自然保護の田んぼでなければ嫌だという人も普通にいる。あらゆる事象には目的の相違がある。目的の相違を考えると、解説は煩雑になり、わかりやすいとは程遠いものになる。

 私がやりたい田んぼというものがある。満作のイネにお米を実らせたい。満作のイネとはその稲が持つ能力を最大限に発揮した姿である。15枚葉を出すイネ。25以上の穂をつけるイネ。穂には100粒以上を実らせるイネ。そして、反収10俵以上のイネ。ということになる。

 満作という目標がある。それを目指しての試行錯誤である。現れる自然というものは、千変万化である。劇症化する自然である。例年通りということは全くない。先を読んで、様々な手立てをする。それでもなぜかという分からない壁が現れる。一体こんなことをわかりやすく解説できるはずもない

 人間の行為というものはすべて違う目的を含んでいると言える。それを切り捨ててわかりやすい解説で、自分の行為を分析するのは実はよくないことになる。むしろわかりにくい個別性の部分を膨らませなければ、自分が生きるということの意味は見つからないはずだ。

 人間がよく生きるということは難しいことだ。道元禅師は「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり。」と言われた。これこそ解説でわかるはずのないほど難しいことになる。まあわかりやすくしてしまってはいけない部分ではないかと思っている

 絵を描くということの難しさはまさにそこにある。生きるということを描いている。生きるということがないようではそれは絵ではない。わかりやすい絵の解説で、絵らしきものが絵とされているので、多くの人が絵というものを間違っている。絵は到底解説の言葉で説明など不可能なものなのだ。

 言葉にならないものがある。説明など不可能なことがある。生きるということはそこに挑んでゆくこと。生きる喜びの意味は語ることのできない実感なのだと思う。絵を描くことでしか味わえない、生きる感触を探しているのだと思う。その時絵は見るものから「行為するもの」へと変わる。

 ここからが一番書きたかったことである。戦争体験を語る「語り部」という方がおられる。戦争を体験された方が高齢になり、年々語り部の数少なくなっている。戦争の実態が伝わらなくなり、戦争の悲惨さを、知らない人が増えてしまう。と言われている。

 果たして本当にそうだろうか。私はこの考えは違うと思っている。人の体験を自分の体験には出来ない。実体験を伝えることが戦争をしないための一つの方策かもしれないが、実際の歯止めにはなっていない。

 そもそも戦争の悲惨さなどいくら実体験した人の言葉であっても、伝わるはずもない。語り部は体験者であっても普通の方なのだ。その人の見方を言葉にはしているが、その方の体験を追体験してもらうというようなことは、言葉では無理な話だ。

 だから文学とか、芸術とか、語りがたいものをどう表現するかで苦闘するのだ。私が田んぼのことを人に解説しきれないのと一緒で、絵のことになれば、言葉で解説することなど全く誤解のもとだと思う。絵で語るのは自分の行為の自覚である。語ることで自己確認するということである。

 戦争の悲惨さは分かっているつもりだ。戦争をやるべきでないのは、悲惨さもあるが、それよりも「問題の解決にならない」からだ。日本は何度も戦争をして、問題の解決など何もできなかった。戦争に勝ち植民地を得た。しかし、それは次の問題を生んだ賭けのことだった。

 そもそも目的とした、大東亜共栄圏の構築など、戦争に何の関係もなかった。単純に間違った問題解決が、さらに大きな問題を生んだのだ。それが最後の大戦争になり、決定的な敗北になったのだ。このことを教訓にしなければならない。

 戦争のつらさは飢えだという人が多い。それがその人の戦争というものを断片にした、切り口なのだろう。戦争とはお腹がすくものだということは確かに実感のある言葉だろう。しかし、飢えたことのない大多数の人に、飢えを伝えるということはできるのだろうか。

 むしろ体験者が語るということで、違うものが伝わってゆくのだと思う。戦争体験者の話が、一定の戦争の抑止になるとは思う。しかし、それが戦争というものの実態を伝えることになるのかと言えば、そうでもないのだろう。恐怖から大げさになったり、ある一面の切り口であったりするはずである。

 戦争を抑止するためには、単純に問題は喧嘩では片付かないということだ。ご近所さんとけんかをすれば、碌なことがない。揉め事は末代まで続くことになる。じっと我慢して第3の道を探す以外にない。そんなことは暮らしていれば、大体の人が分かっている。

 アメリカは世界にケンカを打っている。アメリカがどうなるかを見て居ればわかる。これを機会に衰退を始めるはずだ。アメリカンバットドリームの始まりである。日本はこんな挑発に乗らないことだ。喧嘩はだめだ。関税戦争もダメだ。
 

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