ブログ7000日

   

7000日の継続

 

  毎日ブログを書くようになって、連続7000日になった。初めて書いたのが2006/03/05とある。読んでいただける方のおかげで、20年近く続けることが出来た。心よりお礼を申し上げたい。近くグーブログは終わるという連絡があった。自分のホームページ「地場・旬・自給」に移行して一万日続けたいと考えている。すでに移行しこれはワードプレスで書いている。

 

  今は文字数は3000文字ぐらいのようだ。自然にそうなったが、最近はそのくらいでまとめようと考えて書いてきた。400字の原稿用紙で言うと8枚ぐらいと言うことになる。一般に大学でよくある提出レポートというと3000文字と言うから、そのくらいである。

 

  毎朝のブログを書く時間は2時間半かかるようになった。以前は一時間で書いていた。2時間半はさすがに長いと思うのだが、半分ぐらいはあれこれネットの文章を読んでいる。書いていて気がついたことをネットで調べていることも多い。コーヒーを入れたり、目薬だったり、納豆作りだったり、朝のやることも入れての2時間半である。

 この2時間半は行である。決めたことを継続するということである。三日坊主というが、坊さんは只管打坐である。生きている限り座禅行を続けるのが坊さんである。所が座禅行を続けられない、情けない奴なので、ブログ行であり、只管打画である。やれることを継続する方が、やらないよりはましだ。

 

  書き終わるというか、途中でも、時間が来れば動禅体操に入るので、切り上げることになる。多くの場合10ぐらいの書きかけの文章が並んでいる。その中からその日のブログを選び、訂正やら校正しながらブログにあげる。この校正が不十分でいつも間違いが残る。そういう適当な性格なのだろう。続けるためにはここを我慢することにした。

 

  書きかけの文章を見て、書き続けられそうなものを選んで進める。あるいは、何か書きたいことを思いつけば、そのまま思いつきのまま進める。今書いている文章も思いついたものだ。ブログを何故書いているのかと言うことは、いつも気になっている。

 

  何の目的でやっているかは明確なのだ。1万日の願掛けである。願掛けの内容は公表は出来ない。公表すれば願いが破れる。それは建前のようなもので、長い継続はそれだけでない。惚け防止とか、良い文章を書きたいとか、人に伝えなければいられない思いとか、もう少し違うものもある気がする。

 

  朝起きるのも3時以降はいつでも良いことにしている。3時までは我慢して寝ている。4時までうまく寝られる日もある。いずれにしてもコーヒーを入れて飲みながら、その日のブログを30分ぐらいで公開することになる。だから、新たに書き始める文章は4時半に開始して、6時半までの正味2時間というのが正確の所かもしれない。

  思いつくことを書き連ねるだけだ。3000文字になった。いつの間にかそのくらいに落ち着いた。文字数の枠を決めておいた方が、書きやすいので目安にしている。たまに長くなりすぎて、2回に分けることがあった。これからは、長さももう少し自由にしてゆく。絵だってはがきサイズから中判全紙まで描いてている。

 

  内容については幸福論が頭にある。高校生の頃にラッセルの幸福論を読み、アラン、ヒルディ-と3つの幸福論を読んでみた。人間が生きると言うことの目的に幸福になると言うことがある。ブログを始めるときに、アランのものが新聞への長い期間の掲載だったというので、長く続けて見たいとは思った。幸福とは何かを全体で書いているのかもしれない。

 

  絵と同じである。行為の意味を考えないことをよしとしている。その方が自分らしいと思うからだ。頭の中に出てくる文章をキーボードで追っているだけだ。その意味では3000字レポートは1時間で打ち込めるはずなのだ。一分間に50文字入力できれば丁度1時間で3000字 になる。

  以前は少しづつ進歩しているようだったが、今は進歩はなく、衰えないで継続できていると言うぐらいだ。ミスタッチも少ない方が良いが、長く文章を打ち過ぎて、転換ミスに気づかないと言うことが多い。ミスを減らすためには、こまめに転換した方が良いのかもしれないが、長く続けて打ち込みたい。

 

  まあ、タイピング試験では出来た文章を写すのだろう。文章を書くというのは頭から出てこなければ止まってしまうのだから、止まっている時間と打ち続けている時間とがまぜこぜになる。だから早いときは1級で打っているのかもしれない。そして、考えて止まって、進めなくなるときは級外になる。

 

  頭の回転速度絵打てると言うことが重要なのだ。さらに重要なことは、その日に書きたいことが思いつくかどうかである。絵を描いているときに、このことをブログで書いてみたいと思い、楽メモしておくこともある。メモって書いてみたいと思ったことは、ほぼ3000字レポートが頭の中には出来ていると言うことになる。

 

  偉そうに書いてみれば、モーツアルトである。一瞬に音楽が完成形で出来ていて、楽譜に落とすときには頭の中にあるものを写しているだけと言うことになる。それは偉そうに、もっともらしく言えばであり、実際にはここにあるような、文章が出てくるのだから、たいしたことではない。

 

  そう特徴としては、ありのままの自分を表現するためには、文章の構成やら構想など、あまり考えない方が良いと思っている。だらだらと書いていて、当たり前で、その人らしくて良いなあである。私がだらだら書くとこんなものなので仕方がない。目標は高く井伏鱒二先生である。

 

  確かに願いは文章で自分が現われていればと言うことなのだ。文体とか、語り口とか言うものもある。どこをとってもその人の考えが貫けていれば良い。つまり思想がなければならない。価値観が明白でなければ意味がない。その意味では花田清輝先生なのだ。

 

  希望は高いのだが、ここに文章があるのだから偉そうなことは言えない。動禅体操も偉そうに言えば、生きる行である。実際には農作業の出来る身体の維持である。今更オリンピックにはでれないが、90歳まで田植えが出来る身体でいたのだ。90歳の部の田植え祭り参加する事に意義あり。

 

  ブログはぼけたかどうかの確認にはなるだろう。同じことを繰り返すようになればぼけたとわかる。かなりその傾向はありそうで怖い。ブログの書き方については年に1回位は書いているだろう。その確認が出来るというのが、ブログの良さなのだ。ブログと言う言葉でこのブログを検索すれば、いろいろ出てくる。

 

  これでおおよそ3000文字となった。大分字余りというか、蛇足がついた。ので削除して3046字にしてみた。レポートなら不可である。ともかく一万日ブログを書き続けることに意味がある。その日は2032/06/01 とある。近くなってきた。まずは生きていなければ始まらない。惚けるわけにも行かない。

 蛇足として付け加えておくが、ただただ継続するということに行はあると思っている。3日坊主という言葉がある。行も3日ぐらいしか続かないということだ。1000日回峰行も3日だけ山を行くのであれば、ただの行楽山行である。1000日続けるから行になる。

 考えずに1万日続ける。生きるということは100歳なら本当は3万6千500日行であろう。ただ1日を生ききる。この生きるをより良きものにする。それだけのことではないだろうか。

 
 

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