オウム事件30年「スピリチュアル」の広がり
2025/04/24

オウムサリン事件から30年が経過した。忘れられない事件である。サリンがまかれた地下鉄丸ノ内線に30分前に乗車していた。霞ヶ関駅を通り、都美術館の地下で水彩連盟展の準備を始めようとしたときに、大変なことが地下鉄で起きている。誰か巻き込まれていないかと言うことになった。
何でも早めに進めなければいられない性格なので、30分早く霞ヶ関駅を通過して、事なきを得る幸運を得た。後々考えるほどにぞっとすることだった。30年経過しても忘れることのない事件だ。ワイドショウ-に出ていた麻原の嫌な表情が時々浮かび上がる。優秀な人たちが、何故あの異常な麻原に洗脳されたのか。このことはいつも考え直さなければならない。
おととい 統一教会に宗教法人解散命令が出た。自民党と繋がりはないことになってはいるのだが、実際には安倍晋三との腐れ縁を引きずっている。安倍晋三は統一教会が、エセ宗教の集金教団であることを承知で、選挙対策に利用していたのだ。エセ宗教の政治利用は日本をダメにする。公明党問題がある。
エセ宗教が革命を起こそうとしたのが、オウム事件だろう。そうした嫌な動きが最近感じられる。社会全体に科学的思考が弱まっている。斉藤知事再選問題のようなデマが社会を動かしている。各個人の科学的、自己検証能力が下がっている。迷信が広がっていた時代が戻ってきている。
最近農業でもスピチュアルブームが起きている。昔から意味不明の非科学的な農法の主張はあることはあったのだが、洗脳されたかのような、非科学的な農業をありがたがるようになってきた。いつも書くことは、収量が少なければ非科学的農法だと考えることにしている。
収量の低い言い訳に、力のある作物だとか、病気が治る作物だとか、おいしいさが格別とか、身体に良いとか、いつかは採れるようになるとか、収量とは違う価値基準を持ち出す。妙なウンチクの意味づけが出てくる。この辺からスピチュアル系農法になる。
それぞれが価値観を持てばいいわけだが、自給農業の価値は自分の体力で、食糧を自給すると言うことである。それが出来ない自給農業は、意味がない。自給作物しか食べないと決めれば、飢えて死ぬ覚悟が必要だ。そこで初めて自給農業の醍醐味が見えてくる。お遊び農業ではなくなる。
科学的思考法が後退してきているのは、世の中が混沌としてきているからである。混沌の原因は二つ。コンピューター革命下であることと資本主義の終末期であること。経済的な不安というものが、人間の思考を弱めてしまっている。明日の食べ物がないと言うことほど、人間を追い込むものはない。
生きると言うことを自給食料で突き詰める。食べ物に真剣になると言うことが自給農業の世界。自給農業を目指す上で科学的思考に基づくものであれば、どのような農業技術を選んでも良い。科学農法には計画性がなければならない。1年目の目標があり、3年目の目標、そして最終的な形。
結果は出来たもので自給しているかどうかがすべてである。それが出来ないのであれば、間違っている農業技術なのだ。根拠のないスピチュアルブーム農業になる。科学的な展望のない農業になる。確かに時間のかかる農法はある。しかし、その農法も5年計画であれば、各年度の達成目標がなければならない。
科学的農業技術には再現性がなければならない。どこの誰でもそのやり方で出来るものでなければ、農業技術ではない。農業はその土地の土壌の影響が大きい、その土地の気候の影響もある。水や風の条件もある。だから、全く同じと言うことはない。基本的な技術があり、それを様々な条件下で応用が出来るものが科学的農業技術である。
明治大学の佐倉先生は明治大学の黒川農場で、持ち込まず、持ち出さずの自然農法というものを、比較圃場として継続して実証実験されていた。5年間では十分の収穫には至らなかった。今どうなっているのかはわからないが、もう15年くらいは経過しただろう。
農業には収穫物という結果がある。お米であれば、畝採り出来る農業である。反収600キロ反収10俵を越える農業でなければ、科学的に正しい農業ではない。あるいは努力不足農業である。畝採りするには、作物が満作にならなければならない。作物が健康で最高の生育をするのが科学的に正しい農業技術である。
有機農業だから、収穫量が少ないと言うことを語る人がいる。これは自分の技術力が低いと宣言しているようなものだ。その有機農業が正しいものであれば、必ず収穫量は地域での最高のものになる。有機農業の問題は、技術が難しいと言うことと、手がかかると言うことになる。
長々農業のことを書いたのは、実際のことで書いた方がスピチュアルブームの意味がわかると思えたからだ。オウムでは空中浮遊が可能だというのであれば、簡単なことだ。ここで実際にやって見ろと言うことだ。1分間で良いので空中にいられるならば、何かあると言うことになる。
こうした非科学的なことをまやかしとして行うのがエセ宗教である。エセ宗教は統一教会のように、反日韓国勢力が安倍晋三と結託するというような、ひどい話になる。霊性とか、魂降ろしとか、神がかりとか、オキツネ様とか、こういう迷信系もすべてまやかしである。
日本人の中に伝わってきた迷信を、明治の文明開化から155年間かけてやっと克服出来たのだ。所が混沌としてきた社会に新しい迷信が生まれている。様々な分野が閉塞的になってきている。その閉塞を科学を超えた、超越した力で越えたいという願望が出てきているのだろう。
しかし、どれほど絶望的な未来であろうとも、科学的思考以外は通用しない。問題はまだまだ科学が十分ではないことだ。先日金沢大学の美術部の先輩で医師の松木さんが医療は、ほとんどが不明分野だと言われていた。医療が将来進んだときから見れば、現代の医療が以下に未熟なものかわかるだろうと言われていた。
科学で解明されていない分野ににスピチュアルブームがつけ込んでいるのだろう。農業も科学的な分析がまだまだ不十分である。その隙間に訳のわからない農法が主張されるのだろう。これは経済の分野でも同じである。こうやれば儲かるというような話が宗教がらみで出てくる原因である。
コンピュータ革命が進めば、科学的思考が一段階進むだろう。そうなれば、エセ科学は撲滅される。今が科学の夜明けの時代なのかもしれない。資本主義が貧富の差を生み出している。生きて行く先が不明になり、未来に希望が持てない人が増加していると言うことかもしれない。
スピチュアル世界に逃げ込むことは、さらにおかしな状況になるだけだ。現実から逃げてはならない。エセ科学にだまされてはならない。スピチュアル世界にとらわれてはならない。科学的思考だけが生きる道筋だ。毎朝動禅体操をして心を整えることだ。