瞑想と禅の違い
お釈迦様が悟りを開いたとされるのは瞑想していたときである。座禅をしていたわけでは無い。紀元前五世紀インドルンビニー での事とされている。母は釈迦が生まれるとまもなく死んだ。釈迦はラーマプッタ という人の弟子となり、瞑想の修行をする。たぶんヨガの一種の修行だったのだろう。
しかし、その修行では道を見いだせず、苦行の道に入ったとされる。6年間苦行を続ける。どうしても悩みに落ち込み道が見つからない。苦行で身体を痛めて、疲労困憊になってしまう。苦行を離れ村はずれまでたどり着く。牛乳を村の娘から飲ませてもらい、身体を回復させることが出来た。
ここでの苦行は例えば、「断食」、「熱い太陽の下に座る」、「水の中に立つ」、「雪の地方での裸での生活」、「両手を上げて片足で立つ」、「沈黙の誓い」 というような現代でも行われているタパスといわれるヨガの行者の行に近いものだろう。
苦行で痛めた身体を回復した釈迦は菩提樹の木の下で、瞑想をして悟りを開くことになる。日本の禅宗では座禅をして悟りを開くとされているが、釈迦の時代のインドには、禅宗が言うところの座禅は存在していない。インドのヨガの瞑想と考える方が自然である。瞑想と座禅は似て非なるものである。
瞑想は迷いから抜け出す方法である。瞑想の修行から始めた釈迦は、ただ瞑想をしていても、現実の世界の問題点の解決は出来なかった。そこで苦行をして自分を酷使してその果てに道を見付けようとするが、それでもその解決は出来なかった。そして、ただ身体を休めるように瞑想した時に悟りの気持ちになる。
釈迦の修行の逸話は瞑想から苦行。苦行から又瞑想という流れで悟りを開く姿なのだろう。それから1000年後に達磨大師によって、釈迦の教えとしての仏教の修行法が、インドに伝えられる。その時点ではヨガ的な修行法に近いと考えていいのだろう。
最初は瞑想が中国に伝えられたと考えていいのだろう。苦行と瞑想が渾然となるものだったのだろう。達磨は中国に置いて、9年間座禅修行をしたとされる。私は達磨大師が行っていた修業は穴の中にこもり、禅を行っていたと想像している。
この面壁9年の逸話は、弟子の慧可 が作ったものの可能性がある。中国人である慧可は老荘思想の影響が強い、禅宗の体系を作る。インドから伝えられた瞑想がここで、座禅という修行法になって行く。しかしこの時点では、様々な修行の一つとして、座禅が取り上げられていたと考えたほうが適切ではないだろうか。
それは空海が長安で学び、日本に伝えた密教の姿に近い修行法と思われる。空海が中国で学んだ仏教はインドから伝えれて、後の300年ほどの事である。中国化が進みつつある時代なのだろう。日本では山伏修行とどこか繋がりのある、千日回峰行もあれば、瞑想もある。座禅もある。曼陀羅を描く修行もある。経を読み続けるような修行もある。
その後道元禅師が中国で学んだ時代はその後600年も経過してのことだ。この600年間の中国の仏教には、ヨガ的な物から老荘思想が加味されていたことだろう。座禅は独立した修行になっていたのだろう。様々な苦行も残されていたはずだ。しかし、道元禅師はその中で、只管打坐を提唱する。
瞑想から座禅が明確にされることになる。これは道元の個性によるところが大きいと考えたほうがいい。禅を座禅に単一化する。経典から学ぶことさえ離れる。座禅以外の修行法をことごとく排除し、座禅に集中してゆくことになる。
個人的な体験からすれば、座禅は極めて特殊な修行法に感じる。インドの瞑想によって、釈迦が悟りを開くまでの道筋は極めて論理的な世界である。ところが、道元が純化した座禅という修行法は、難解で、悟りを開くことができる人は、希有な人と言うことになる。
座禅を試みて、挫折した者としてその困難さを実感している。例えば絵を描くなどと言うことは許されない修行だ。少林寺のように、拳法が修行がされるような姿は、曹洞宗には全くない。人間を極めるという意味で武道が修行にある事は不思議ではないが、ともかく道元は修行を座禅一つに絞り込む。
このときから、瞑想と座禅は決別する。似て非なる物になった。座禅は瞑想から出発して、無念無想の空の状態を探求する、引き返せないような修行になる。ただ座ることで、考えることすら許されない世界となってゆく。実践主義である。
瞑想は言葉のように静かに思いを巡らせる世界だ。瞑想によって心をリラックスさせ、ストレスからの解消。悩みから解き放たれる事が目的になる。瞑想は社員研修などで取り上げられることがある。ストレスが重なりがちな企業で働くことの中で、瞑想法によって精神の安定を保とうと言うことなのだろう。
現代社会では瞑想がフィットネスと同じような意味で行われている。シャワーを浴びるような事に近いかも知れない。心身がリフレッシュするための方法として、瞑想法が現代社会で行われている。本来のヨガの瞑想とはまた別のものとして、実用瞑想法のようなものが行われている。
禅は意志的に思考を閉じる。一切の雑念から離れる。悩みの解決す
ることと禅はかけ離れた行為だ。むしろ悩みと一体化してしまうようなイメージかも知れない。座禅を行うことには心の問題を解決するというような目的はない。目的らしき者があるとすれば、自分の心の本来を気づき、その自分を受け入れると言うことに成るかも知れない。
ることと禅はかけ離れた行為だ。むしろ悩みと一体化してしまうようなイメージかも知れない。座禅を行うことには心の問題を解決するというような目的はない。目的らしき者があるとすれば、自分の心の本来を気づき、その自分を受け入れると言うことに成るかも知れない。
もちろん禅ではこうした解釈や、理解も受け付けない。このように禅を分析して、合理的な思考をしようとすることも拒絶する。ただただ座禅をすると言う行為を重んずる。心の弱い者が座禅をすれば、神経衰弱になるのが落ちである。だから一人で座禅を行ってはならないとされている。
座禅修行による悟りへの道は尋常ではない危険を伴うようなものだと思う。これはあくまで私の理解であるが。現代の禅宗の中には、社員研修のようなことを行うところもある。多分に禅を社会の中で実用化しようとすれば、禅が瞑想に近づいて行くことになるのだろう。
禅では企業で働くというようなことは想定すらない。どちらかと言えば反社会的な非生産的なところに自分を置くことになる。私の場合は絵を描くと言うことを禅のようにとらえている。これは実は禅で言えば間違ったことだ。絵を描くという行為になりきろうとしている。
出来上がった絵のことを考えない。絵を描くという行為に意味を感じている。描くという行為を確認するための絵画作品という位置づけ。では瞑想法絵画なのかと言えば、それともどこか違う気がしている。