「世間とは何か」阿部謹也著
一度こう言う道を描いてみたいと思っている。歩いている内に出来たような道である。この道は海に続いているように見える。そしてその海の先には竹富島が見える。この雲も良い。生えている木も悪くない。
でもまだ道は描いたことは無い。道という意味合いがどうも、タオのようでもあるし。繪にしたとき嫌みな意味が出てきて恥ずかしい気がするのだ。そういう意味が好きな人がいる。絵手紙のもっともらしい言葉などよくもまあと思う。繪はそういうものに近づいては成らない。
「世間とは何か」阿部謹也著講談社現代新書を読んだ。思い当たることばかりで面白かった。日本には世間はあるが、社会は無い。そう言われるとそんな気がしてきた。世間様にしたがって言えばそれなりに生きて行ける。長いものには巻かれろの、長いものはお上では無く、世間だったようだ。
そのことは社会という言葉が出てきたときに、世間と置き換えてみると分かる。社会と言いながらも実は世間に過ぎないと言うことの方が多いようだ。日本ではこの世間というものをよく考えないと道を誤りかねない。
私には社会はあっても世間は無いつもりで生きてきた。智に働けば角が立つ情に棹させば流される 。とかく人の世は生きづらいと漱石は「草枕」で書いている。漱石の人の世は世間のようだ。
世間という意味は、まわりに生きている人にどう思われるかによって、自分の行動を決めるという意味と考えれば分かりやすい。世間様に顔向けが出来ないというようなことだろう。社会という意味は社会的共通価値が存在すると言う意味と考えている。
日本にはあるのは世間であって、社会では無いというのは、日本人の暮らしの規範は社会的ルールよりも、世間的な判断が重要と言うことなのだろう。回りの目を気にして生きる日本人と言うことである。社会的ルールとしては正しくとも、世間では通用しないという日本にある特殊な社会。
憲法とか、法律とか言うものもは社会的なものである。世間で通用している規律は文章として定めるようなものと言うより、不文律というようなもので、無いと言えば無いのだが、あると言う意味では法律よりも思いしがらみ的なものである。この見えない抑止力のようなものが、日本を形成する世間である。
世間をあえて無視するように生きてきた。世間が出来る前に引っ越しながら生きてきたとも言える。小田原久野で自治会長を引き受けたときの条件は、自治会規約を作ると言うことだった。舟原自治会費の領収書が無かった。「領収書はないのですか。」と徴収に見えた組長に聞いたらオレが信用できないというのかと怒られた。久野に存在する世間様を、少し社会に近づけたかったのだ。
世間の方はそんなものを作ったところで、無視すれば良いのだからと仕方なく受け入れてくれた。しかし、仕方なくであるとしても、一度出来た規約は世間の思惑を越えて、存在する。必ず役に立つときがあると思っている。もちろん役立つような問題が起きないことが一番良いのだが。
私の自治会長の時には、自治会に加盟しない人がいて、ごみを出して良いのかどうかが問題になった。裁判の事例では、自治会に加盟していなくともごみは出して良い。となっているこれが社会だ。ところが自治会という世間様では、とんでもない奴だと言うことで村八分である。しかし、今の時代村八分も有り難いという人が多い。
この世間が嫌いなものなので、田舎社会を出るという人も多い。都会には世間がほとんどないと言えば無い。それでも東京の商店街の中に住んでいたことがあるのだが、そこにも世間は存在した。意味不明な非難を受けることも少なくなかったが、社会の規範で押し切っていた。
そういう世間の空気が読めない人間なので、山北の山中の開墾生活に入ったとも言える。発達障害の人間は空気が読めないと言われるから、それは仕方がないとも考えてきた。世間から離脱して、ひとりで自給自足で生きる。そうできれば世間の目が無くなると思ったのかと思う。
その頃考えたことは世間は理不尽なものだから、もし世間で生きて行くならば、なんでも7対3を五分五分と思っている他ないと言うことだった。対等と思えば、やって行けないのが、世間だ。
対等と思うことは世間的には私がひどく得をすると言うことらしいと思っていた。そのころは社会の中で生きたいと考えていたので、この7:3を処世術として受け入れることにした。それを損だと思わないことにしたのだ。ひどい話だと思わないことにしたのだ。このくらいが世間の五分五分だと受け入れることにした。
その結果世間からは遠ざかることが出来た。世間から大分遠のいた頃に、社会が表われた。それが、酒匂川フォーラムである。あしがら有機農業研究会である。ここでは世間は存在しない。社会としての普通のルールで動いている。社会的な集まりには世間的なものを持ち込まないことだ。
そのルールを受け入れた人だけの社会である。そのルールを違うと思う人は離れて行く。そうして、暗黙のルールをルールとして理解できる人が残って行く。ここには何一つ命令されたり、世間的な配慮が必要なことはない。やりたいことをやっても良いだけである。やりたくないことはやらないで、止めて行けば良いだけである。自治会が困るのは世間的なものであるのに、自由に止めることが出来ないところだろう。
価値観の近いものが残って行く。この自然淘汰がとても大事なのだ。自然淘汰が起きないで、異質のものが残って行くと軋轢が生まれ、世間が誕生する。この生まれてくる世間が、なかなか手強いのである。世間的な常識という形で、自分の主張を押し付けようとする。
社会には世間がないと言うことを理解できない人もいる。私を何歳だと思っているのかと怒った人がいた。年齢の上のものの意見は、批判をせず聞けと言うことらしかった。当然新参者が何を言うのかと言うことでもある。
残って行く人はここの連中は世間的でない変わり者だから仕方がないと思い、ここでは世間を持ち出しにくくなるのかもしれない。この曖昧さがとても良いのだが、曖昧だからルールがないかと言うと実は厳然とルールはある。むしろきついルールはある。
例えば平等というルールがある。公平という考え方がある。ところがこれが実に難しい。先日欠ノ上田んぼで作ったクン炭が不足してしまったらしい。早く持ち去ったものは多く確保できて、後からのものはなかったようだ。それで、クン炭の分け方を平等にする案が出ていた。
平等なぞあるのだろうかと思う。何が平等なのだろう。必要な人が必要なだけ使うのが一番の平等である。その必要の意味はそれぞれに違う。均等に分けるのが平等だという人はいるだろう。労働に応じて分けるという平等もあるだろう。その分け前を販売する人がいたたばあいどうなるのだろう。
神様がいて、必要に応じて分けてくれるのが平等なのだとおもう。みんなが神様になれば、どのように分けても平等である。お互いを神様と思えるかどうかが世間と社会の違いなのかもしれない。世間はお互いを対抗するような、序列のある存在とみている。社会はお互いを対等の存在とみている。
世間の方が都合が良いと考える人が多々存在する。自分の理不尽のような押しつけが世間と言うものだと言えば、通るとと考えるからだろう。世間の名の下に自分の都合を主張しようとする。